よみもの・連載

軍都と色街

第一章 横須賀

八木澤高明Takaaki Yagisawa

RAAと横須賀


 米兵の蛮行を予期していた日本政府は八月十五日の終戦直後から、米軍の進駐に備えて、特殊慰安施設協会、通称RAA(レクリエーション&アミューズメントアソシエーション)と呼ばれる米兵を慰安するための協会を作ったことは広く知られている。米兵たちが市中に出て、日本人の婦女子に暴行するのを防ぐため、米兵向けの慰安所を日本各地に設置したのがRAAだった。ダンスホールなどもあったようだが、その多くは米兵たちの性欲を処理する売春施設であった。
 日本で米兵向けの売春施設として、最初に営業したのが東京の大森にあった小町園(こまちえん)だった。横浜方面から国道十五号線をジープに乗ってやって来た米兵五人が第一号の客だったという。終戦から二週間も経っていない八月二十八日のことだった。
 その日以降、小町園には多くの米兵が集まり大混乱の様相を呈した。中には朝から晩まで六十人を相手にし、絶命した女性や、売春をすることを知らず応募し、あまりのショックに電車に飛び込み自殺する者もいたという。
 そして、横須賀においても米兵向けの売春施設が作られた。それは安浦ハウスと呼ばれた。モノクロ写真が残っているその場所は現在、県の合同庁舎になっている。

 私は安浦ハウスのあった場所を訪ねてみた。当時の痕跡が何か残っていないかと思ったのだ。建物は駐車場と無味乾燥なコンクリートのビルに変わっていた。米兵に日本人女性が体を開いた場所は正に夢の跡となっていたのだった。
 ここ安浦ハウスの歴史を辿(たど)っていけば、旧日本海軍時代の色街にもルーツを求めることができる。安浦ハウスのあった場所は、かつては米ヶ浜もしくは観念寺と呼ばれていた。米ヶ浜と聞いて、気がつく人がいるかもしれないが、鎌倉時代には日蓮宗の開祖である日蓮が、房総に向けて舟を出したといわれるのがここ米ヶ浜である。さらには坂本龍馬の妻だったおりょうも再婚して米ヶ浜で暮らした。その歴史的な土地が時代を下って、横須賀が旧日本海軍の軍都となると、銘酒屋と呼ばれる私娼たちを置いた飲屋街となっていった。
 銘酒屋について説明しておけば、もともと銘酒屋が集まっていた土地として知られているのは、東京の浅草や文京区の白山(はくさん)などである。
 浅草で銘酒屋が多かったのが、ストリップ劇場の浅草ロック座のある六区である。ちなみに六区は、今では一軒のストリップ劇場しかないが、元々は十軒以上のストリップ劇場が建ち並ぶストリップの中心地であった。浅草には関東大震災で崩れた凌雲閣(通称十二階)という楼閣が建っていた。今でたとえると東京スカイツリーみたいなもので、浅草のランドマークであった。この十二階の周辺に銘酒屋は建ち並んでいた。明治時代に営業をはじめて銘酒屋は度重なる摘発に遭い、新聞縦覧所などの看板を掲げながら営業を続けた。その数は一千軒以上ともいわれ、二千人以上の女たちが働いていた。
 関東大震災で十二階が倒れた後は、銘酒屋の多くは、亀戸や玉の井に移っていき、東京の郊外へ新たな色街が広がるきっかけとなった。銘酒屋は関東大震災後も浅草で営業していたが、東京大空襲により焼失すると、私娼窟は勢いを失い、街娼たちは浅草を離れた。
 現在、浅草十二階が建っていたパチンコ屋のまわりは細かな路地が入り組んでいる。その路地を抜けて行くと、連れ込み宿が目につく。戦後すぐには、街娼を求めて米兵たちも多くやって来た。周辺には在日朝鮮人が経営する朝鮮マーケットが存在し、米兵たちとの間でトラブルとなり、米兵が殺害される事件も起きている。
 そしてもうひとつあげた白山は、今では閑静な高級住宅街として知られている。果たしてそんな場所に色街があったのかと思う人もいるかもしれないが、文京区には戦前の一九三五年まで旧日本陸軍の砲兵工廠があり、工員などを目当てにした銘酒屋が少なくなかったのだ。
 横須賀の銘酒屋がどこから来た業者がはじめたのか、はっきりとした資料は残っていない。都内から来た業者も少なくなかったことは想像に難くない。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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