よみもの・連載

軍都と色街

第一章 横須賀

八木澤高明Takaaki Yagisawa

横須賀とサイパン島のつながり


 明治から大正、昭和、そして平成と、横須賀の色街は百五十年にわたって続いてきた。横須賀の色街が発展する土台は旧日本軍にあったことは間違いない。
 横須賀にいた兵士たちは、太平洋戦争当時アジアや太平洋の各地の戦場へと散らばっていったわけだが、そのうちのひとつが今や手軽に行ける海外の観光地として知られているサイパン島である。
 一九四四(昭和十九)年六月十五日、圧倒的な火力と兵力を擁した米軍の上陸により幕を開けたサイパン島の戦い。日本軍の組織的な抵抗は七月七日まで続き、日本軍三万人以上、当時サイパン島に暮らしていた在留邦人一万人が亡くなった。
 日本軍は六月十五日に米軍の上陸を許すと、その日の晩から米軍陣地に向けて夜襲を敢行していた。その夜襲を敢行した部隊の中に横須賀で編成された海軍の落下傘部隊唐島部隊がいた。六百名の兵士からなる唐島部隊は精鋭部隊として知られていた。
 その唐島部隊の兵士で、サイパンの戦場から奇跡的に生還した井出口義雄さんに話を聞いた。
「今から七十年以上前のことですからね。すべてはっきりと覚えているわけではないですが」
 と言って、彼はサイパンでの戦闘のことを語ってくれた。
「私がサイパン島に上陸したのは、米軍が来る三ヶ月前の一九四四年の三月のことでした。私たちの部隊は陣地の構築をしたわけではなく、落下傘部隊だったので、落下傘の訓練に明け暮れる毎日でした。そんな日々を送っているうちに、米軍が上陸してきたんです」
 記録によれば、唐島部隊は住民に見送られ、夜襲に出撃したとされているが、井出口さんにはその記憶はまったくない。
「夜襲の命令が出て、待機していた陣地から出撃したんですが、見送られた記憶はないんですよ。とにかく匍匐(ほふく)前進をして米軍に向かって行った記憶と、夜中なのに米軍が打ち上げる照明弾の明かりがまるで野球場のナイター照明のようで、何もかも丸見えになったことはよく覚えているんです。ぱっと打ち上げられると五分ぐらいずっと明るいままで、とてもじゃないけど立ち上がることなんてできない、米軍の陣地に向かうのに何時間も匍匐前進をしたのがその日のこととして強く印象に残っているんです。明け方近くになって、やっと突撃できる位置まで辿り着いたんですが、いざ突撃した時に、腰の辺りに被弾してしまい、動けないうちに味方は全滅してしまったんです」
 公式な記録によれば、米軍を海に追い落とす目的で行われた、その日の夜襲は完全な失敗に終わり、唐島部隊も全滅した。
 所属部隊を失った井出口さんは、サイパン島の中を一年以上彷徨(さまよ)った。
「軍服は替えがないですから、醤油で煮染めたような色になり、軍靴は戦友の死体が私のよりいい軍靴を履いている場合は、今まで履いていたものと、すいませんと手を合わせて履き替えるんです。靴を脱がすと死体の肉までべろりと剥がれてしまうんですが、水なんてありませんから、手ではらうんです。逃亡中、一番大変だったのは、食料の問題でしたね。人数が多いとそれだけいざこざが起きやすいですから、一人か二人で行動するんです。一番食べたのは夜中に米軍のゴミ捨て場から拾って来る残飯ですね。腐りかけて膨らんだ缶詰だとか、ほとんど食べないで捨てた缶詰を夜中に忍びこんで拾ってくるんです。今から考えたら、腐ったものも食っていたんですけど、不思議と下痢をしたことは一度もなかったですね」

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number