よみもの・連載

軍都と色街

第二章 大湊

八木澤高明Takaaki Yagisawa

色街のルーツ


 八戸は江戸時代初期に南部(なんぶ)盛岡藩によって城下町が形成された。それからほどなくして、色街ができた。江戸時代に記された八戸の地図を見てみると、小中野遊廓は記されていない。その理由は遊廓が城下町の東の外れに位置していたからである。
 八戸の地図を眺めていると、馬淵川と新井田川という二つの河川に挟まれた巨大な中洲であることがわかる。二つの河川は太平洋に流れ込んでいて、八戸の歴史とは切り離せない役割を果たしてきた。盛岡藩の祖である南部氏も鎌倉から船に乗り太平洋を北上し、馬淵川を遡って三戸の地に拠点を築いたという伝説がある。時代は下って江戸時代に入ると、江戸と八戸を結ぶ東回り航路が河村瑞賢によって開かれ、それにより諸国の船が立ち寄るようになった。
 明治時代以前、鉄道網や陸上交通が発達するまでは、水運は今以上に日本経済において重要な役割を担っていた。当然ながら経済活動のひとつである色街の存在も、港とは切っても切り離せないものとなった。数多い港の色街のうち一例をあげれば、江戸と大坂を結ぶ海上交通の要所であった三重県の渡鹿野島や静岡県の下田などでは、港に色街が形成された。
 ここ八戸でも、船乗りたちを相手にする色街が産声をあげた。もともとは、船乗り相手に洗濯など身の回りの世話をしていた女たちが、いつしか体を売るようになり、色街となっていった。最初に栄えた色街は、小中野遊廓ではなく、太平洋に面した鮫港だった。
『小中野の花街』によれば、江戸時代中期の安永年間(一七七二〜一七八一)には、小中野に七軒の妓楼があったのに対して、鮫港には四十三軒もあったという。それが明治時代に入ると、鮫港は寂れていき、小中野が賑わうようになった。やはりこれも時代の流れで、明治時代に入ると、江戸時代の水運とともに栄えた色街や飯盛女を置いた宿場町などは、軒並み衰退していき、鉄道駅の周辺などに栄える土地に移っていく。
 八戸に鉄道駅ができたのは一八九一(明治二十四)年のことだった。色街の盛衰は社会の移り変わりと密接な繋がりがあることを物語っている。
 小中野遊廓の隣町には、もうひとつ浦町という色街があった。歴史的に古いのは浦町の方だった。浦町に人が集まったため、新たに開かれたのが、新むつ旅館のある通りだった。
 浦町周辺を歩いてみると、かなり広い範囲に潰れたスナックやそれらしき木造建築が点在していて、以前はかなり賑やかな場所であったことを窺(うかが)わせた。
 ただ、今ではほとんどが住宅街となっている。
「昔は、八戸で飲んだり遊んだりするのは、ここだったからさ、人で溢(あふ)れていたけど、見る影もないなぁ」
 往時を知る地元の男性は、先ほど話を聞いたクリーニング店の女性と同じようなことをぼそっと呟いた。
 江戸時代からはじまり、一九五八(昭和三十三)年四月一日に売春防止法が完全施行されるまで、小中野遊廓は営業を続け、その後も八戸を代表する繁華街として人通りが絶えない街であったが、主要な産業である漁業の不振など、地域経済を取り巻く環境は厳しくなるにつれ繁華街の灯(あか)りは消えていったのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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