よみもの・連載

軍都と色街

第二章 大湊

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 もう少し六ヶ所村の話をさせてもらいたい。
 青森県といえば、三内丸山遺跡など縄文時代の遺跡が知られているが、六ヶ所村周辺に集落が形成されたのは、平安時代に入ってからのことだ。
 この土地に暮らしはじめた人々は、農業に向かない土地ということもあり、朝廷に献上する馬を生産したのだった。それが歌枕の地として知られている尾駮の牧である。
 江戸時代後期、東北地方を旅したことで知られている菅江真澄は、十年以上にわたって、当時は伝説の地であった尾駮の牧を訪ねたいという思いから、真冬の旧暦十一月に六ヶ所村もあった尾駮の牧を訪ねている。彼はこれから私が向かおうとしている大湊の隣町である田名部から、時に凍った坂を下り、牛の背に揺られたりしながら、雪道を十日ほどかけ歩いて尾駮の牧へとやってきた。菅江真澄は、この地の民家に泊めてもらい、六十歳の家主から尾駮の牧の由来を聞いている。

 

”この村の名をおぶつと人は言いますが、それはむかし、尾の毛がぶちな馬が生まれて、珍しいと都にひいてゆかれ、それからおぶちのまきといったのです。今もそこを高牧といっています。人をくったその馬は、うち殺して埋め、そこにななくらという馬塚もありました”

 

 古(いにしえ)の時代、馬という朝廷への献上品を通じて、ここ六ヶ所村は中央と繋がった。
 馬は、貴族にとって貴重な財産であり、権威の象徴でもあった。それを生産する尾駮の牧は、中央から遠く離れた寒村であったにもかかわらず、貴族たちには知られた場所であり、「後撰和歌集」などにもこの土地を詠んだ歌が収められた。それ故に、江戸時代の旅人菅江真澄は、難儀を厭(いと)わず尾駮の牧を訪ねた。
 平安時代から、江戸時代へと、馬によって編まれた歴史の重みをひとりの旅人菅江真澄は、心に宿していた。その歴史の地層はいつしか途絶え、今となっては、原子力という人間社会の業火ともいえる存在を通じて、この村は中央との関係を保ち続けている。
 ただひとつ言えるのは、下北半島の寒村の過去から現在へと続く中央との浅からぬ繋がりは、馬であれ原子力であれ、中央への従属という歪(いびつ)な関係の上に成り立っている。それは歴史の因縁といってもいいのかもしれない。
 そう考えると、この土地の歴史は古代から現代までひと筋の川のように続いていて、むしろここに原子力再処理工場ができるのは必然であったように思えてくるのだった。
 ちなみに菅江真澄は尾駮の牧への旅のなかで、今も残る老部(おいっぺ)や白糠(しらぬか)といった地名は、かつてこの土地にアイヌが暮らした名残りであると指摘している。実際に青森県には江戸時代までアイヌの集落があった。失われてしまった歴史の痕跡というのは、地名だけが残っているアイヌたちの文化であって、アイヌを追い出した和人の文化は、歪んだままに繋がり続けている。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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