よみもの・連載

軍都と色街

第二章 大湊

八木澤高明Takaaki Yagisawa

「母親と母親の身の回りを世話していた女性の写真なんですよ。母親の名前はみさと言いましてね。父親がここを買い取って、母親が女将におさまったんです。当時の屋号は新盛楼といいました」
「どのような経緯で遊廓を経営することになったんですか?」
「はじめは遊廓ではなかったんです。母親が大湊で芸者をやっていて、職人をしていた父親と結婚して、戦前に軍人相手の料亭をやりはじめたんです。遊廓になったのは戦後のことなんです。お得意様の軍人さんがいなくなりましたからね。客足が途絶えてしまったもんですから、米兵相手の商売をしたりと身を落としてしまったんだ」
 原田さんは、遊廓経営ということを、あまり快く思っていないのだろう、身を落とすという表現を使った。
「ご両親の出身地はどこなんですか?」
「母親は青森市内の出身なんです。父親が郵便局長をやっている家だったんですけど、幼い時に母親が亡くなってしまってね。それから父親も病気になってしまった。裕福な生活をしていたのが、一気に厳しくなってしまった。それで十代の半ばで、口減らしの意味と家族を支えるために芸者になったそうです。その場所が、秋田の尾去沢の鉱山街だった。そこに越前さんとこのお爺さんが足を運んだ時に、母親と出会って、気に入ったから、大湊に連れてきてこっちで芸者をやらせたんだ。父親は誠一と言いまして、一九〇〇(明治三十)年の生まれです。長崎県の五島列島の出身でね。長崎に出て建設会社の職人をやっていたんだ。各地を仕事で回ったみたいで、大湊に来る前は、仙台にいた。そこで所帯を持って、子どもは五人いた。それから大湊に海軍の仕事で来たそうです。家族を置いて来ていたから、仕事も頑張っていたけど、たまには羽を伸ばしたりしたんだろう。そん時に母親と出会ったそうです」
 明治時代になって開けた軍港大湊らしい話だなと思った。両親ともに大湊には、地縁も血縁もなかった。いわば、よそ者同士が結びついて、後に料亭と遊廓の経営に携わることになる。
 今ではむつ市の一部となっている大湊であるが、合併する前の大湊町の時代には、軍港として大いに栄え、人口は十万人を超えていた。ちなみに現在のむつ市の人口が六万人に満たないほどであるから、当時の繁栄ぶりがわかるだろう。
 原田さんは父親のモノクロ写真も大事に保存していた。半纏を着て若い衆と写ったものや上半身裸で見事な彫り物が目立つものもあった。当時の職人たちの威勢の良さが、手札ほどのサイズの写真には満ちているのだった。
「親父は、海軍の仕事を請けて、儲かっていた。青森で原田組といえば三本の指に入る規模だった。それでも、どこかに長くは続かないという思いがあったんだと思う。派手に金を使ってもいたけど、まとまった金が入った時に、この建物と土地を買ったんだ。他にもう一ヶ所食堂を手に入れて、自分の商売が駄目になった時のことを考えていたんじゃないかな。土方はひと月大名、ひと月乞食という言葉もあって、浮き沈みの激しい仕事だから、まだ水商売の方が安定していると思ったんだろうよ」
「ここを買われたのはいつごろのことですか?」
「一九三七(昭和十二)年だって聞いたな。土地は千坪あって当時のお金で二千円。もともとここを持っていたのは、北前船の親分と言われていた元山さんという人でね。その人から買ったそうです」

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number