よみもの・連載

軍都と色街

第三章 舞鶴

八木澤高明Takaaki Yagisawa

鉄道と軍都の成り立ち


 人混みの中を歩いて着いた山陰本線のホームは、人もまばらで同じ駅でありながら、流れている空気がのんびりとしている。ホームに止まっていた列車は四両編成で、しかも久しく乗っていなかったディーゼル列車だった。新幹線のホームからこのホームへ、数分しか歩いていないが、時代を逆戻りしたかのような思いにとらわれた。
 列車は、「ゴゴゴッ」という音を響かせて京都駅を出発した。桜の季節ということもあり、春霞(はるがすみ)の下、桜が植えられた公園では、人々がシートを敷いて、思い思いに花見を楽しんでいた。京都の街中を抜けると、山あいを列車は走る。民家と田畑が織りなす景色は、何も考えずに眺めているだけで、瞼(まぶた)が重くなり心が安らいでくる。牧歌的という言葉がしっくりとくるのだった。
 日本の田舎を象徴するような京都の山間部から舞鶴を結ぶ舞鶴線の鉄路であるが、その成り立ちはのどかな空気とはかけ離れている。
 明治時代に入ると、一八七二(明治五)年の新橋─横浜間の営業を手始めにほぼ全国は鉄路で結ばれていくことになる。鉄道は、物資と人の移動という経済的な結びつき以上に、富国強兵の時代ということもあり、軍隊の移動を担うことが重要視された。
 鉄道の建設の歴史を振り返っていくと、明治政府は最初から一枚岩というわけではなかった。 
 軍内部でも、鉄道よりは軍艦などの建造に予算を充(あ)てるべきだという意見も少なくなかった。さらには、海運業や江戸時代からの街道筋で商売を営む人々が、鉄道網が整備されてしまうと、商売に影響が出ると反対し、鉄道用地の買収はなかなか進まなかった。
 その風向きが大きく変わったのは、一八七七(明治十)年に勃発した西南戦争によってである。戦争の間に新橋から横浜まで二万六千人以上の兵士、さらには軍需物資が鉄道によって運ばれた。鉄道により横浜港から戦地である九州へ速やかに兵員や物資が送り込まれたことで、鉄道の重要性が誰の目にも明らかとなった。さらに、普仏(ふふつ)戦争において、フランスに勝利したドイツから陸軍大学校の教官として招聘(しょうへい)したメッケル少佐の存在も大きかった。
 メッケル少佐は、軍制改革など日本陸軍の近代化を推し進めるうえで、普仏戦争では鉄道輸送の迅速さが勝利に寄与したことから、鉄道網の整備を進めるべきだということを主張したのだった。
 内外からの声で、鉄路普及の必要性を痛切に感じた明治政府だったが、全国に鉄道網を敷くだけの予算はなかった。やがて各地の豪商などが私設の鉄道会社を起こしたことが、鉄道網が広くいきわたるきっかけとなった。
 明治政府にとっての仮想敵国は清であり、その戦争のためにも鉄道は、私設ではなく官設が望ましいということになり、日清戦争の二年前にあたる一八九二(明治二十五)年には、鉄道敷設法が制定された。それはあくまでも建前上のことで、明治政府には財政的に官設で全国に鉄道を敷設できなかった。実質的に鉄道が国有化されるのは、日清戦争に勝利し、莫大な賠償金を手にしてからのことだった。国有化は日露戦争後の一九〇六(明治三十九)年に制定された鉄道国有法まで待たなければならなかった。そうして明治末期になって、全国の鉄道の約九割は官設の鉄道となったのだった。
 その後、日本は一九一〇(明治四十三)年に韓国を併合し、植民地化すると、鉄道の整備を行った。一九三二(昭和七)年に満州国を建国すると、日本から韓国をトンネルで結び満州まで繋(つな)がる鉄道も計画された。中国、さらには東南アジアへと戦域が拡大すると、日本から中国、ベトナム、マレーシアを経てシンガポールまで結ぶ鉄道網の整備も計画されたのだった。
 そう考えると、鉄道というものは、最初に計画が練られた時点では、人々の日常生活のためというよりは、軍隊の輸送や経済を効率よく回すための物資の輸送というところに主眼が置かれていたことがわかる。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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