よみもの・連載

軍都と色街

第三章 舞鶴

八木澤高明Takaaki Yagisawa

明治の鉄道と色街の盛衰


 鉄道網は軍都や戦争の影響によって広がっていったが、それにより色街も少なからぬ影響を受けたことを伝えておきたい。先に鉄道敷設に江戸時代からの街道筋の商人たちが反対したと記したが、その中には飯盛女たちを置いて、旅人相手に商売をしていた飯盛旅籠の関係者も少なくなかった。
 江戸時代、五街道をはじめ日本各地の街道筋には、飯盛女たちを置いた飯盛旅籠が存在した。鉄道が敷設され街道から旅人が消えたことにより、飯盛旅籠は閑古鳥が鳴くようになった。人々は鉄道駅のまわりに集まるようになり、そこに新しい町ができた。鉄道駅からほど近い場所には遊廓が新設されたケースも少なくない。それまで宿場で働いていた飯盛女たちは、新しくできた鉄道駅周辺の遊廓に移されたのだった。
 私は、現在の軽井沢の外れにあった追分宿の飯盛女たちが移された長野県佐久市にある岩村田遊廓跡を訪ねたことがあった。
 追分宿は、江戸時代を通じて栄えた宿場であったが、全盛期には二百人以上の飯盛女たちがいたという。彼女たちが歌った追分節が今日まで残っている。

”浅間根越の焼野の中で あやめ咲くとは しほらしや”

 小砂利に覆われた浅間山の中腹にあやめが咲くとは美しいという意味になるが、そのあやめとは飯盛女たちのことを意味している。この追分節は、中山道や北国街道を歩いた馬方たちによって全国へと広まり、越後追分や江差追分に受け継がれていった。
 岩村田遊廓の跡を訪ねるにあたって追分宿も訪ねたが、平日にもかかわらず昔日を偲(しの)ばせる建物が残った宿場には、観光客の姿が絶えなかった。
 ちょっと話が脱線してしまうが、追分宿からほど近い場所には、長野県上田市と栃木県日光市を結ぶ日本ロマンチック街道が走っている。このロマンチック街道を車で五分ほど上田方面に走っていくと、御代田町(みよたまち)に入る。かつて御代田はスナックで働くタイ人のホステスたちが体を売っていた場所だった。ここでタイ人ホステスたちが体を売るようになったのも戦争と浅からぬ因縁があった。
 タイ人のホステスたちが働くスナックが賑(にぎ)わっていたのは、今から二十年ほど前のことだった。売春はスナックから歩いてもいける距離にある、ラブホテルを利用して行われていた。
 私が御代田の名前を知ったのは、横浜の黄金町にあったちょんの間で多くのタイ人が働いていた頃のことだった。黄金町で働いていたタイ人娼婦たちの中には御代田で働いていた者も少なくなかった。
 私が初めて御代田を訪ねた時、タイ人のホステスたちが働く二階建てのスナックビルはあったが、働いていた女性たちは、日本人と結婚し、この地に根を下ろしているタイ人ばかりで、売春はすでに過去のものとなっていた。それから数年後にあらためて、スナックビルへと足を運んでみると、かつて訪ねた店は、もう看板がなくなり、営業をしていなかった。ビルに入っているスナックのほとんどが潰れてしまっていた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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