よみもの・連載

軍都と色街

第三章 舞鶴

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 私たちは京都から二時間ほど列車に揺られ、もうちっと乗っていたいなという気分のまま東舞鶴駅で降りた。小ぢんまりとした昼下がりの駅には、制服姿の高校生たちが目についた。戦後直後、ソ連や満州などから復員した兵士や民間人たちが、各々の故郷へと帰った場所であり、新舞鶴と呼ばれたこの駅だが、当然ながら往時の面影はどこにもない。地方ののどかな駅である。
 駅舎を出ると、水上勉の小説『飢餓海峡』の主要な登場人物である犬飼多吉の屋敷があったという海とは反対側に位置する小高い丘を見た。
 小説はあくまでもフィクションであり、『飢餓海峡』が描いた時代に私は生を受けてはいないが、水上作品には人間臭さと戦後直後の日本の地方都市を描いたリアリティーが感じられて、犬飼多吉がこの場所に生きていたような気にさせられるのだ。
 現在の舞鶴市は、古くからの城下町である西舞鶴と、明治時代の海軍の軍港建設によりできた東舞鶴と中舞鶴の三つの町が合併してできた。
 戦国時代には細川幽斎の居城、江戸時代には牧野家三万五千石の城下町となり、さらには商港として栄えた西舞鶴。一方の東舞鶴と中舞鶴は、軍港以前の明治時代の地図を眺めて見ると、漁村と山が迫った土地に水田が広がっているだけだ。ロシアを睨(にら)む意味で海軍の鎮守府が置かれたことにより、街が突如生まれた。舞鶴という土地は東と西で、積み重ねてきた時代の厚みが違う。出来星の街と由緒ある街がくっついて舞鶴市となっている。
 鎮守府が置かれる以前、人口が最も多かったのは、江戸時代の城下町であった西舞鶴の八千八百五十六人である。他の地区は千人から二千人がほとんどで東舞鶴と中舞鶴に至っては、統計が残されていない。ほとんど住民がいなかったということになる。その後鎮守府が置かれて二十年近くがすぎた一九一八(大正七)年には、西舞鶴の人口が一万一千百九十一人なのに対して、東舞鶴では二万六百二十人、鎮守府のあった中舞鶴では一万二千九百九十九人にまで激増していて、西舞鶴の人口をはるかに超えている。舞鶴地域の総人口は七万九千百七人で、一八九八(明治三十一)年の四万三千二百六十二人から倍近くに人口が増えているが、増えた人口のほとんどが東舞鶴と中舞鶴の住民である。両地域の住民の多くはその当時、舞鶴に本籍をもっていない、外部からの流入人口であった。
 人口の動態を眺めているだけで、東・中舞鶴と西舞鶴という二つの地域の違いがくっきりと浮かびあがってくる。
 伝統ある城下町の西舞鶴と、新開地であり、口悪くいえば流れ者たちのフロンティアであった東舞鶴とでは、住民の気質も当然ながら違う。
 少し話を戻してみれば、京都の山奥の村の出身で、傍(はた)から見ればどこぞの者とも知れぬ小説『飢餓海峡』の犬飼多吉が、東舞鶴に屋敷を構えたということが、如何にリアリティーのあることかわかるのだ。のちに触れようと思うが、私が舞鶴という土地について、興味を持つきっかけとなった事件があるのだが、その事件は東舞鶴を舞台に起きていて、容疑者として逮捕された男も東舞鶴の住民であった。
 そんなわけで、私がまず興味を持ったのは東舞鶴である。小京都とも呼ばれる西舞鶴は、品のある落ち着いた街なのだろうが、「軍都色街」というテーマで旅を続けていると、軍都が築かれた明治時代や大正時代に発展した土地というものに目がいくのだ。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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