よみもの・連載

軍都と色街

第三章 舞鶴

八木澤高明Takaaki Yagisawa

竜宮遊廓跡のアパートを訪ねる


 東舞鶴の駅前からレンタカーを走らせると、やはり明治時代に開かれた街ということもあり、区画ははっきりと碁盤の目になっている。
 その様は、北海道の札幌や江戸時代末期から明治時代にかけて埋め立てられた横浜の関内駅周辺とよく似ている。私がまず向かったのは、その東舞鶴の町の、東の外れ、志楽川にかかる橋を渡った場所にある竜宮遊廓の跡だった。
 果たして誰が名付けたのだろうか、その名前が何ともロマンチックである。甘美な場所である遊廓でひと時を過ごした後、川を渡って軍艦に戻れば、まさに明日をも知れぬ身であり、遊廓は同じ世界に存在していながら、まったくの別世界であった。
『ふるさと舞鶴』(株式会社郷土出版社)によれば、鎮守府が開庁した年に貸座敷の許可が下り、その翌年には七戸の貸座敷によって竜宮遊廓の営業がはじまった。その後、海軍の軍人だけではなく、鎮守府での仕事を求めて人口が急増したことにより、明治の終わりには、貸座敷三十五戸、芸妓五十名、娼妓百五十名が男たちを慰めたという。
 遊廓跡を訪ねてみると、やはり広々とした一本の目抜き通りがあった。かつてはその両側に遊廓が建っていた。一九五八(昭和三十三)年の売春防止法の施行により遊廓の歴史は幕を閉じたこともあり、一見すると、遊廓跡は住宅街となっている。ただ、車を降りて歩いてみると、ところどころにかつて遊廓だっただろうなと思わせる建物が残っている。
 そうした建物は紛れもなく歴史的な建造物なのだが、今も普通に人が暮らしていたりして、地元の人々からしてみれば、できれば忘れ去りたい歴史なのだろう。遊廓だったことを伝える看板が立っているわけでもない。

 私と田島さんは別行動を取った。こうした場所では、複数で歩いていると、どうしても相手が構えてしまうので、常に分かれて話を聞くようにしている。
 誰かに話を聞けないかと思い、当てもなく歩いていると、初老の男性がひとり一軒の木造アパートの前で、こちらを窺(うかが)うように佇(たたず)んでいた。
 
 取材において、あらかじめ誰かにアポイントを取るわけでもなく、とにかく人を見つけたら、よっぽどのことがない限り、話しかけるようにするのが、私のやり方だ。言ってみれば、取材手法というようなものではなく、ただただ泥臭く動くだけである。
 そんな取材で、よく話を聞くことができるなと、呆(あき)れられたり、本当に話を聞いているのかと疑われることも多々ある。時にはアポイントを取るなどの段取りをして取材することもあるが、どうも性に合わない。行き当たりばったりの突撃取材で話を聞いた方が、これはあくまでも感覚の話になってしまうが、取材対象者が構える間も無く、本音を聞き出せるような気がするのだ。
 私を凝視し続けている男は、年の頃七十代といったところか。
「東京から取材で来たものですが、当時のことを何かご存知じゃないでしょうか?」
 あえて、遊廓という言葉を使わずに、話をふってみた。男性は何のことかという顔をしている。
「この通りが遊廓だったと聞いてますが?」
 男性は、遊廓という言葉に特に嫌な顔をすることなく、ちょっと間を置いてから、話しはじめた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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