よみもの・連載

軍都と色街

第三章 舞鶴

八木澤高明Takaaki Yagisawa

『岸壁の母』の舞台となった桟橋


 後日、私たちは小さな入江を訪ねた。そこは、いつか訪ねてみたいと思っていた場所でもあった。内海ということもあり、海面は波ひとつ立っておらず、穏やかであった。海に油を流したような油凪(あぶらなぎ)である。この入江を見て、ふと思い出したのは、三重県の渡鹿野島だった。島と湾を巡る風景は、この入江の方が広々として開けているが、油凪の海面がそっくりだったのだ。
 入江には、長さにして二十メートルに満たない小さな桟橋が伸びている。その桟橋の名前は通称、舞鶴引揚桟橋という。
 その桟橋のことを私は一曲の歌から知った。その歌が流れていたのは、小学校に上がるか上がらない頃かのことだったと思う。

 

“母は来ました 今日も来た この岸壁に今日も来た 
とどかぬ願いと知りながら 
もしやもしやに もしやもしやにひかされて“

 

 歌の題名は『岸壁の母』、当時の私が歌の内容を理解していたわけではなく、哀愁を帯びたメロディーが心に残っていたのと、家族みんなが見ていた歌番組で必ずといっていいほど、この歌が流れていた。
 今から四十年以上前のことになるが、インターネットなどは普及しておらず、家族みんなでひとつの番組を楽しむことは当たり前の光景だった。大人が好む演歌のサビの部分を子どもたちが誦(そら)んじたりするのは、普通のことだった。
 この歌の舞台が京都の舞鶴だと知ったのは、しばらく経ってからのことだったが、色街や戦争に関する取材を続けていくうちに、多くの軍人たちが復員したこの桟橋をいつか訪ねてみたいという気持ちを持ち続けていたのだった。
 歌の題名に岸壁とあることから、勝手な思い込みで舞鶴の港の一角に、その場所はあるのだろうとばかり思っていたが、舞鶴に来て地図を見て、その場所を確認してみると、街の中心部から十分ほど車で走った入江で、小さな桟橋があるだけだと知り、微かな驚きを覚えた。
 その景色を眺めていると、田島さんが思わぬことを言った。
「私の父方の祖父は、シベリアに抑留されていたそうで、ここ舞鶴に復員したのかもしれません」
 私は思わず「それはすごい事ですね」と、言った。
 関東軍の兵隊を中心として、シベリアに抑留された人々は七十万人とも二百万人ともいわれている。そのうち七万人が亡くなった。
 七十万人が抑留されたとすれば、十人にひとりが、劣悪な環境の収容所とシベリアの寒さによって亡くなった。
 田島さんのお祖父(じい)さんは、無事日本の土を踏むことができ、当たり前のことだが田島さんは今この桟橋に立っている。何ということでもないかもしれないが、とんでもない奇跡だと思う。私の祖父も出征し、無事復員できたことにより、父が生まれ私がいる。
 のっぺりとした海を眺めながら、人の歩んできた道というのは、限りなく複雑なものなのだなという思いを強くする。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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