よみもの・連載

軍都と色街

第四章 知覧・鹿屋

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 梅毒は一九四三(昭和十八)年にペニシリンによる治療が有効とされたことにより、不治の病ではなくなったが、今でも性行為などから感染する病にエイズがある。やはりそれも人間の尽きぬ性欲を媒介する手段のひとつで全世界に広まっていった。
 私はかつて、エイズを発症した患者たちが収容されているタイにあるホスピスを訪ねたことがあった。今日、エイズは不治の病ではなく、投薬治療をすれば、症状をコントロールすることも可能で、普通の人々と変わらない日常生活を営むことができる。ただ訪ねたホスピスでは、投薬治療を方針として行っていなかった。今も患者たちの目が印象に残っている。
 ベッドに横たわり骨と皮だけになった患者たちは、生きているのか、死んでいるのか、一点を見つめたまま、まったく動かなかった。彼らの目は、迫り来る死を恐れているようではなく、どこか生きることを諦め、生きながら死んでいるかのようであった。そして、病棟に差し込む光を吸い込んだ眼球は澄んだ水面のようだった。
 私はこれまで、様々な目を見てきたが、タイのエイズ患者ほど澄んだ目を見たことがなかった。人間というものは生に対する執着を失った時、あのような目になるのだろうか。
 特攻に飛び立った若者たちも同じような目をしていたのだろうか。

 

 鹿児島市内に入ると、私たちは遊廓跡を訪ねてみることにした。鹿児島の遊廓史を繙(ひもと)いてみると、一番古い遊廓は鹿児島市内ではなく、霧島市横川町山ヶ野という土地にあった。
 山ヶ野には、江戸時代初期の一六四〇(寛永十七)年に発見された金山があった。佐渡と肩を並べるほどの豊富な埋蔵量を誇り、労働者を慰めるために遊廓が置かれたという。
 薩摩藩の城下町であった鹿児島市内には、表向き遊廓は存在しなかった。ただ江戸時代の文政年間(一八一八〜一八三八)に現在の鹿児島市新町の大門口に芸子や歌子など、大坂方面から来た女たちがいた。それらの女たちがいた家は上方問屋と呼ばれていたという。さらに、一八四三(天保十四)年に描かれた城下町の絵図には、大門口のあたりに昔遊女屋有りと記されている。
 ちなみに大門口は、明治、大正、昭和にかけて私娼窟として残った。州崎遊廓、新世界と呼ばれ、一九三三(昭和八)年に内務省が発行した資料によれば、十五軒の店に八十人の娼婦がいた。
 鹿児島に公に認められた遊廓ができたのは、明治時代に入ってからのことである。現在のJR鹿児島駅のあたりに築地遊廓ができたが、市内の拡張とともに、甲突川の河口の埋立地へ移され、沖之村遊廓となった。
 読んで字のごとく、当時、遊廓の先は海で、三方を海と川に囲まれている。その後、常盤遊廓と呼ばれるようになり、一九五八(昭和三十三)年に売春防止法が完全施行されるまで営業を続けた。
 常盤遊廓のあった場所は、もともとゴミ捨て場で低湿地、人も住まぬ土地だった。遊廓跡を歩いてみると、数軒のカフェー建築の建物が残っていた。
 道は舗装され、埋め立てにより海は見えないが、大まかな地形は当時と変わらず、甲突川と清滝川に挟まれている。住宅街となっている遊廓跡では、ソープランドが営業していた。売春防止法が施行されるまで、色街として続いていた土地の因縁を引き継いでいるのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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