よみもの・連載

軍都と色街

第四章 知覧・鹿屋

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 開館して以来、約二千万人が訪れたという知覧の特攻平和会館であるが、終戦直後、特攻隊員は戦時中に崇められた対象とは一変し、国賊扱いされたという。
 ここ知覧でも、特攻隊員たちのことを省みる者はひとりの女性を除いて他にいなかった。ひとりの女性というのが、知覧で富屋食堂を経営していた鳥濱トメだった。
 トメの店は、戦時中に軍指定の食堂となり、多くの特攻隊員が出入りした。トメは、物資が不足していた戦時中、着物などの私財を売ってまで、特攻隊員たちが欲した食事を用意するなど、真心を込め、もてなしたこともあり、彼らはトメのことを実の母親のように慕った。
 知覧に立派な平和会館ができたのは、戦後も彼らのことを忘れず、雑草が生えるがままになっていた飛行場跡に足を運び、手を合わせるだけでなく、観音堂の建立を町に訴え続けたトメの行動があったからだった。
 特攻隊員たちとひとりの女性の絆が育まれた知覧の町にも戦後になって、日本軍の飛行場を接収するために米軍がやって来たこともあり、米兵相手の慰安所ができた。その慰安所は富屋食堂の向かい側にあった内村旅館だった。
 特攻の町にできた米兵向け慰安所とは如何なるものだったのか、地元の人に話を聞いてみたいと思った。

 現在富屋食堂のあった場所は、当時のままに再現されていてホタル館という資料館になっている。一方の内村旅館は、すでに取り壊され駐車場となっていた。
 ホタル館からほど近い場所に暮らす女性に話を聞いた。
「戦時中のご記憶は何かありますか?」
「私は小学校二年生。もう、毎日戦争のまっただ中でした。兵隊さんたちがいっぱいいてね。ご飯を食べて、癒やしの場がトメさんの食堂だったようです」
「特攻隊の方とかは覚えてらっしゃいますか?」
「もちろん覚えていますよ。兵隊さんの名前はわからないですけど、私は小学生だったから、可愛がってくれましたよ。膝の上に乗せてくれたりしてね。当時は飛行場の近くに住んでいたんですよ。」
「空襲もあったんですよね?」
「うん。沖縄と通信をする通信兵もいましたから、昭和二十年の五月五日に空襲があって、十二軒焼けましたよ」
「まだ小さくて、ご記憶はないと思うんですけど、飛行場は当然戦争直前にできていますよね。飛行場ができる前からご両親はこちらで暮らしていたんですか?」
「そうです。そう。うちの母なんか、毎朝、青戸の飛行場も、知覧も勤労奉仕に行っていました。今のような機械はないから、みんな畚(もっこ)よ。木の棒の両端を二人で持って、真ん中の袋に土を入れて運ぶんですよ」
 勤労奉仕という女性の言葉を聞いて、おそらくここ知覧でも、朝鮮半島から来た労働者が働いていたのではないかと思った。強制連行云々(うんぬん)の話はさておき、あの時代日本各地の軍関連施設、工業地帯、鉱山などでは、男たちが戦場に駆り出されたことにより、労働力不足から朝鮮半島や中国から来た人々が数多く働いていたことは紛れもない事実である。実際に、この旅で立ち寄った各地の軍都では、朝鮮半島出身者が多くいたことを土地の人々が証言してくれていた。
「朝鮮の人はいましたよ。小学三年生の時に同じ名前の人がいて、どうしてるかなってやっぱり思いますよ。今はもうないですけど、知覧にも朝鮮人の集落があったんですよ。みんな長屋みたいな家を建てていました。家と家の間は小学校のお便所に行くような細い渡り廊下くらいの狭さでしたね。家の外で、芋づるでも何でも、魚の骨とかと一緒に煮ていて。『わー、おいしそう』って言って、近づいたら、ハエがばーんってたくさん飛んできて驚きましたね。衛生的な場所ではなかったですよ」
「その人たちは戦争が終わったらいなくなっちゃったんですか?」
「仲が良かった子もいなくなっちゃったんです。どうしてるかな。朝鮮部落といえば、高校を卒業してから京都で暮らしたことがあったんです。姉が京都にいたので。街を歩いていたら、姉が『そっちを通ったらダメだよ』って言ったんです。なんでって聞いたら、朝鮮部落があるって言うんです。知覧では、朝鮮部落に行ったらダメだとか、そんなことは一切なかったので、驚きました。差別はあったのかもしれませんが、関西に比べたら暮らしやすかったんじゃないでしょうか」

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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