よみもの・連載

軍都と色街

第四章 知覧・鹿屋

八木澤高明Takaaki Yagisawa

鹿屋を歩く


 翌日は、前日の天気とは打って変わって青空が広がっていた。フェリーが出る港へ近づくと、もくもくと煙を吐き出す桜島が目に飛び込んできた。
 この日私たちは鹿屋へと向かう予定だった。言わずと知れた特攻隊が出撃した基地のあった町である。鹿屋は太平洋戦争がはじまり、終わった町とも言われている。
 はじまりというのは、一九三六(昭和十一)年に海軍航空隊の基地が作られた鹿屋で真珠湾攻撃の作戦計画が練られたことにあり、そして終わったというのは、米軍が本土に最初に上陸した場所だからである。
 鹿屋航空隊が開設されたのは、一九三六年のことだった。その翌年の七月七日には盧溝橋事件が起こり、それ以降中国大陸における日本軍の軍事行動は拡大の一途を辿(たど)ることになる。鹿屋航空隊は台湾に出動し、上海、重慶など主要な都市の爆撃に携わった。その後、太平洋戦争がはじまり、戦局の悪化とともに特別攻撃隊、いわゆる特攻隊が飛び立つ基地になっていくことになる。
 特攻隊員たちは、鹿屋市野里町にあった宿舎周辺の千メートル四方は自由に外出することが許されていた。田園風景を眺め散歩することが、特攻隊員たちの心を慰めたという。
『鹿屋市の年輪』(米永代一郎著 南九州新聞社刊)に特攻隊員が野里町の人々との触れ合いを記した手記が収録されていた。孫引きになるが引用したい。

”火山灰の丘と丘の間の平地は麦畑になっていたが、ある日散歩に出た特攻隊搭乗員が、農家で麦刈りを始めているのを見た。若い者はみんな前線へ出征したのか、麦を刈っているのは年寄りと女と子供ばかりだった。(中略)若い搭乗員たちは、よし来たとばかりに勢い込んで早速三十人ほどが出かけていったが、(中略)いざ麦刈りをやってみると、案外むずかしくてうまく刈れず、(中略)おかげで成果が揚らず、大いに自信を失って帰ってきたのである。
 ところが、その後が大変だった。
 この話を聞いて感激した部落の人たちから、いろいろな慰問品がとどくのである。(中略)このようにして貰った慰問品は、驚くなかれ牛一頭・豚三頭・鶏百数十羽・鶏卵に至っては実に数千の多きにのぼったのだった。”

 この手記の冒頭、火山灰の丘と丘というくだりがある。私はその一文を読んだ時、特攻隊が飛び立った基地の思わぬ繋がりにはっとなった。
 太平洋戦争末期、神風特別攻撃隊が、最初に出撃したのは、フィリピン・ルソン島のマバラカット飛行場である。搭乗員のひとりは、この旅でも訪ねた軍港舞鶴で育った谷暢夫(たにのぶお)であった。
 私は、二度ほどマバラカットを訪ねたことがあった。その土地からは、ピナツボ山という火山を見ることができる。土地は見渡す限り平坦ではあるが、その土を削って流れる川の色は白濁していて、多くの火山灰が土に含まれていることを窺わせていた。
 どちらの飛行場も農業を営むには厳しい環境の土地に作られていた。戦後になってマバラカット飛行場や隣接しているクラーク飛行場にはかつての主人である米軍が戻ってきて、東洋における空軍基地として機能していた。しかし、ピナツボ山の噴火によって使用不能になったこともあり、一九九一(平成三)年にフィリピンに返還された。
 そして、クラーク飛行場の真横にはアンヘレスという色街がある。もともとは、朝鮮戦争やベトナム戦争の時代に米兵向けの色街として産声をあげたのだが、今では日本人や韓国人、オーストラリア人などの観光客向けの色街となっている。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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