よみもの・連載

軍都と色街

第四章 知覧・鹿屋

八木澤高明Takaaki Yagisawa

鹿屋の遊廓


 鹿屋には太平洋戦争以前から遊廓があった。ただ、鹿児島県の県史や鹿屋の市史などにも、記録としては残されていない。鹿児島で公許を得ていたのは、この旅のはじめに訪れた沖之村遊廓のみで、それ以外は私娼窟という扱いである。
 私の手元に戦前の内務省予防局が発行した『業態者集團地域ニ關スル調』という資料がある。昭和八年、九年、十三年、十四年に発行されていて、日本全国の私娼窟の娼婦数及び店の数について記録している。昭和十四年の記録によれば、四十三戸に四十人の私娼がいたという。
 その私娼窟は、鹿屋市青木町にあったことから青木町遊廓と呼ばれ、戦後になると赤線に指定された。公許を得ていなかった私娼窟は、戦後青線となるところが多かったが、鹿屋は米軍が進駐したこともあり、青木町遊廓が最大の色街であったことから赤線となったのだろう。
 その場所を訪ねてみると、すでに住宅街となっていて、何も知らずにこの場所を訪ねたら、遊廓があったことに気がつく人はほとんどいないのではないか。色街だったことを窺わせるのは、すぐ東側を川が流れていることぐらいだ。

 ここでも、人々の記憶の中にしか、色街の匂いや風景は残っていないことだろう。私は、遊廓跡からほど近い場所にある一軒の洋服店に入ってみた。
 応対してくれた男性に遊廓について調べていると言うと、年の頃七十代の店の主人が、片隅にあるテーブルに座るように勧めてくれた。いきなり現れ、遊廓のことを尋ねる私たちに、いやな顔もせず、主人はお茶を出してくれた。
「鹿屋の飛行場ができたぐらいに遊廓もできて。昭和三十三年頃まであったようなことは聞いたんですけど。それで、いつ頃まで遊廓は続いたんですか?」
「そうだね。はっきりと言えるのは、赤線が廃止になるまでは続いていた」
「遊廓があった時代というのは、米兵もこの辺に来て、遊んだりしたんですか?」
「はい。店は十軒ばかりあったんじゃないかな。遊廓だけじゃなくて、スナックなんかもたくさんあって、パンパンもいたから賑わったよ。遊廓だったところに今マンションが建っているんだけども、そこに大きな建物があって、上が料理屋で、下が、何やったのかな。そこに米兵がよーく来ていた」
 男性の年齢は七十七歳。米兵がこのあたりを闊歩(かっぽ)していたのは、小学校に上がるか上がらないかの頃だった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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