よみもの・連載

軍都と色街

第五章 千歳

八木澤高明Takaaki Yagisawa

どこもビアホールだらけだった千歳


 米兵で賑わっていた頃、街は日本ではないような空気に包まれていたという。そんな時代に、父親が浮気し、苦しい生活を強いられたわけだが、その頃のどんな記憶が残っているのだろうか。
「昭和二十年代かな。米兵たちが時間になっても基地に帰ってこないと、MP(憲兵)っていうの、あの人たちが回って歩いて、スナックでも、そういうアパート関係でも、みんなもう土足で入ってくるんだわ。私が寝ていたらね、昔だから鍵なんてかけて寝てないんだよね。そしたら、もう布団をばーっと剥がして、おっかなくてね」
「駅前は日本人がほとんど歩いていなかったと聞いたんですけど?」
「米兵が一番いた頃は、そんな感じだったよね。うちの向かい側にも、スナックみたいな、立ち飲みみたいな店があったね。ビアホールは儲かったみたいで、一斗缶にお金を入れて、足でお金を踏んづけて、閉めた後は店の二階へ持って上がって、随分お金をためた人がいた。ビアホールをやった人の中には貸金業もやったりして、アパートをたくさん持っていた人もいた。八十軒ぐらい所有していたと聞いてますよ」
 当時、千歳市内に点在していたパンパンハウスやビアホールの場所がしるされた地図を見ると、任子さんの家の前にはパンパンハウスがあったと記されていた。その地図によると、大げさではなく、千歳市内の路地という路地に、ビアハウスやパンパンハウスがあった。そう考えると、日常の風景となっていたことが窺える。
 ここで、ご主人の聡さんが言った。
「一斗缶に入った札を足で踏んづけていると、しわくちゃになるでしょう。そんなお札にアイロンをかけているのを見たこともあったな」
「すごい光景ですね」
「当時はビアホールだけじゃなくて、屋台さんとかいっぱい出ていて、人力車も走っていたし。連れ込み旅館もいっぱいあったからな」
 それだけ米兵相手の店があれば、パンパンとの間に生まれた子どもも少なくなかっただろう。そうした子どもたちとの交流はあったのだろうか。
「二世の人はいっぱいたわね。最近は見かけないけど。私たちが中学生の頃はいたからね。名前、忘れたけど。私の母親の姉の子どもは、米兵の子どもと一緒になって外国へ行っちゃった」
「当時、小学校ぐらいの時というのは、とにかく米兵だけじゃなくて、パンパンの人がいっぱいいたわけですか、街の中には。それが普通の光景だったんですか?」
「そう、普通の光景だったよね。今でいうワンピース、ドレスみたいなのを着ている人が多かったよね、結構派手な柄とかね」
「地元の人はそういうお仕事はしていなかったんですよね?」
「家庭が貧しい人などで、そういうふうにしてた人はやっぱりいたわね。特別な人じゃなくても、昔、家庭が貧しいようなところの女の人は、そういうことをしていた」

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

Back number