よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

大阪の色街のルーツ


 戦国時代、大坂における大きな戦いといえば、織田信長と石山本願寺の戦いが、よく知られている。十年にわたる戦(いくさ)の中で、当時大坂の海の入り口とも言える場所に木津川口砦というものがあった。信長方と本願寺方に加勢する毛利水軍が二度にわたって海戦を繰り広げたので、歴史好きの人はよくご存知だと思うが、信長はその時、鉄甲船を建造し、本願寺方を打ち破ったことでも知られている。
 その木津川口砦は、木津川を挟んで現在の京セラドーム大阪の対岸あたりにあった。さらに、時代が少し下って、江戸時代のはじめには、そのあたりに川口の遊里という色街があって、たいそうな賑わいを見せていたという。戦国時代の趨勢を決めた戦にしろ、色街にしろ、大阪という街は、川とは切っても切れない縁がある。大阪には一八八八(明治二十一)年に第四師団が置かれ、軍都であることを今日に伝える遺構も残り、遊廓と軍隊の繋がりも深いが、軍都と色街の話にふれる前に大阪の色街のルーツでもある川と色街をめぐる話から、はじめていきたい。
 今では都市風景が広がっている木津川沿いは、戦国時代末期から江戸時代のはじめにかけて、諸国からの船が行き交い、色街が形成されたのだった。木津川口砦は大坂を守る本願寺の最前線として築かれ、色街は商業と密接に結びついて産声をあげた。そのことが意味するのは、大坂にとってそこが重要な場所であったということだ。
 今以上に川や水路が入り組んでいた大坂は、守るに易く、攻めるに難い、要害の地であった。戦国時代末期、この場所に目をつけたのが豊臣秀吉だった。秀吉は、鳥取城、三木城、備中高松城の戦いなどを見ても、無用な力攻めをせずに、攻める地域の米を買い上げ、兵糧攻めにするなど、地域経済を制することが、戦において肝要だと心得ていた。秀吉が大坂城を築いたのは、大坂が軍事的な要地であっただけでなく、難波の津があった万葉の時代から港として栄え、畿内の流通を押さえ、さらにはアジアへと覇権を伸ばすのに適した土地であったことを意味している。
 さらに言えば、秀吉以前に大坂を拠点とした宗教集団の石山本願寺も大坂が経済的に重要だったということを認識していたことは言うまでもないだろう。戦争をするのも多くの信者を囲い込むのも、カネが必要だったのである。それでなければ、十年以上に渡って、天下人になりつつあった信長と正面から対峙することはできなかった。
 カネが動く土地に、色街と娼婦ありというのは、人間社会の必然であり、大阪における娼婦の存在も万葉の時代からはじまっている。
 
 
 ”霰(あられ)うつ安良礼(あられ)松原住吉(すみのえ)の弟日娘子(おとひおとめ)と見れど飽かぬかも”

 
 この歌が詠まれたのは、現在の住吉(すみよし)大社付近で、天皇や貴族が参拝した住吉大社の周辺には、彼らの相手をする浮かれ女(め)と呼ばれた遊女たちがいた。今では失われている住吉の安良礼松原を弟日娘子という遊女と眺めていると飽きることはないという意味になる。もう一首あげれば、著名な歌人山上憶良(やまのうえのおくら)も遊女の存在を匂わせる歌を詠んでいる。その歌は遣唐使船の使節だったときに詠んだものだ。


 ”いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ”


 大伴の御津とは、遣唐使船が発着した住吉津と推定され、浜の松が自分たちを待っているとの意味だが、民俗学者の谷川健一の見解によれば、その浜の松というのが遊女であるという。確かに松が待っているというよりは、住吉の遊女が自分たちの帰りを待っているという方がしっくりくる。直接的な表現を使わないのは、万葉の時代の文化人の風流といってもいい。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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