よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

大坂の陣と色街


 川口の遊里が栄えた頃から、少し時代を遡ると、豊臣家が滅んだ大坂冬の陣と夏の陣があった。一連の戦いでは、真田幸村や後藤又兵衛をはじめとして、大坂方の武将たちが華々しく散っていったが、そうした勇将ではなくひとり気になる武将がいる。もうすでにぴんと来ている人がいるかもしれないが、一六一四(慶長十九)年に戦端が開かれた大坂冬の陣で、川口の遊里からさして離れていない博労ケ淵(ばくろうがぶち)砦に浪人たちを率いて籠っていた薄田兼相(すすきだかねすけ)である。
 博労ケ淵砦は、大坂城の西の外れに位置し、緒戦で徳川方と豊臣方が弓矢を交えた場所でもあった。その初めの戦いで、守将であった薄田兼相は、遊廓に泊まっていたため、戦いに参加することができなかった。しかも砦は陥落し、武将としてはあり得ない失態を犯したのだった。そのことから、兼相は橙(だいだい)武者というアダ名をつけられ、蔑(さげす)みを受けたのだった。橙武者とは、橙が鏡餅の飾りで食べられないことから、見せかけだけの武者という意味である。
 薄田兼相は、その翌年の大坂夏の陣で名誉挽回を果たしたわけでもなく、また失態を犯す。道明寺口の戦いに八時間も遅れ、後藤又兵衛が討ち死にするという事態を招いた。ここまで、失態を重ねる凡将というのも珍しいが、それ故に興味が湧いてしまう。
 大坂冬の陣で、兼相が泊まり込んでいた遊廓というのが、平安時代にはすでにその名が知られていた神崎の色街である。
 神崎の遊里は、現在の兵庫県尼崎市で猪名川と神崎川が合流するあたりにあった。平安時代の公家で文学者でもある大江匡房(おおえのまさふさ)は『遊女記』において、天下第一の楽土と記した。
 この地に遊女たちが集まるようになったのは、今から約千二百年前の七八四(延暦三)年に長岡京が造営され、瀬戸内海と京都を水運で結ぶために、神崎川と淀川を繋ぐ工事が行われてからのことである。
 さて、遊廓に泊まっている間に砦が陥落するという、日本中の誰もが注目する戦いにおいて汚名を残した薄田兼相がどのような人生を送ってきたのか。豊臣秀吉に仕官し、武芸に秀でたものが務めた馬廻り衆だったというが、それ以外のことは何も知られていない。
 ただ、気になるのは、武芸に秀でていたのであれば、博労ケ淵砦という戦略的にもあまり重要ではない場所になぜ配置されたのかということだ。現に、真田幸村は大坂城の弱点だった南側の上町(うえまち)台地に真田丸を築き、徳川方に対して見事な槍働きをして大坂方の意地を見せた。
 これはあくまでも私の勝手な推察である。兼相は馬廻り衆というエリートなので、豊臣家からしてみれば外様のような存在である真田幸村や後藤又兵衛といった武将が重用されるのが気に食わなかったのかもしれない。それゆえに、投げやりな態度をとって遊廓へと足を向け、憂さ晴らしをしていたのではないか。彼が守っていた博労ケ淵砦から神崎へは、水路で繋がっていて、直線距離にして七キロほどである。当時小早船と呼ばれた、小型の船は速いもので時速十四・五キロほど出たそうなので、一時間もかからず着いたことだろう。
 
『遊女記』によれば、神崎は船が連なりほとんど水が見えないほど栄えていたという。現在の神崎の地に足を運ぶと、神崎川の護岸はコンクリートで固められ、周囲は工場が建ち並び、当然ではあるが、往時を偲ばせるものは何も残っていなかった。唯一、川のほとりにある公園にこの地で亡くなった遊女を弔う塚があった。江戸時代の元禄年間に作られたのだが、明治時代に近隣の小川の橋として利用されているのが発見され、この地に戻されたのだという。
 この遊女塚は、法然が讃岐の国に流される途中に、神崎を船で通った際に、宮城、吾妻、刈藻、小倉、大仁という名の遊女五人が法然とやりとりをしたという伝説から生まれた。
 宮城ら遊女たちは、法然の船に近づきこのように問いかけたという。
「罪業深きを懺悔(ざんげ)し、来世に救われる方法はないでしょうか?」
 その言葉を聞き哀れに思った法然は、
「罪深い身であっても、ひとたび阿弥陀如来を信じ、念仏を唱えれば、仏の光明によって罪も消え、西方浄土に至るでしょう」
 と言い念仏を唱えた。すると五人の遊女たちはたちまち涙を流し合掌すると、穢(けが)れている己の身を嘆き、遊里の目の前を流れる神崎川に身を投げてしまったというのだ。
 法然と遊女の伝説は、この地に如何に遊女が多かったかということの証しでもある。遊女たちが身を投げたのは、平安時代末期のことで、神崎の色街はそれから売春防止法が完全施行された一九五八(昭和三十三)年まで存在し続けた。
 その歴史の流れの中に、薄田兼相もいたことになる。果たして、どこに薄田が泊まった遊廓があったのか。神崎の遊女は、客の船に近づき、その船で事に及ぶ者もいれば、暮らしている家に呼びせた者もいたという。
 博労ケ淵砦が陥落したのは、今から四百年ほど前のことだが、薄田兼相という一人のあまりに人間臭い男の姿に思いを馳(は)せると、今となっては失われてしまった光景が、なぜか目の前に浮かび上がってくるような錯覚に襲われるのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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