よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

松島新地の事始め


 江戸時代に入ると、川口の遊里の遊女たちは、風紀維持のため新町遊廓に吸収された。一方で、安治川のぴんしょたちは黙認され、私娼として存在し続けていた。
 江戸時代、公許を得ていた大坂の色街は新町遊廓だけであったが、江戸には公許を得ていた吉原だけでなく、数多の岡場所が存在したように、天下の台所と呼ばれ日本一の商業都市だった大坂にも、堀江新地、南地五花街、曽根崎新地などの色街が存在した。
 安治川沿いのぴんしょたちは、明治時代に入ると消えていくわけだが、そのきっかけとなったのは、江戸時代末期に大坂が開港されることになり、明治へと元号が変わる一八六八(慶応四)年七月に外国人の居留地である川口居留地ができたことだった。
 川口の居留地は、安治川と木津川が分かれる九条島の一角があてがわれ、諸外国に競売された。街路樹が植えられ、街灯は石油ランプ、舗装された道路沿いには洋館が建ち並んでいた。異国情緒溢(あふ)れる居留地だったが、安治川の水深が浅く、大型船が入港できないなどの問題もあり、神戸に居留地ができると、多くの外国人はそちらに移っていき、急速に寂れていった。
 川口居留地ができた時に、外国人向けの色街を作ったことと、娼婦を街中に散在させていては、風紀が乱れるとして、ぴんしょなどの私娼を一ヶ所にまとめるために、市内遊廓に移転することを奨励し、現在の松島公園の場所に松島新地ができたのだった。
 江戸時代末期に横浜が開港された際には、現在の横浜スタジアムの場所に外国人向けの港崎(みよざき)遊廓が作られたように、松島新地が作られたのは、外国人が女性を求めて市中で狼藉を働かないようにということが主な理由であった。さらに時代が下って、太平洋戦争に敗れ日本に進駐軍がやって来るとなった際、日本政府は米兵を中心とした進駐軍相手の色街を日本各地に作るが、そのはじまりは開国した江戸末期にあったといっていいだろう。
 松島新地ができたのは一八七二(明治五)年のことで、その後、大阪大空襲によって焼失し、現在の九条へと移転したのだった。
 戦前の松島新地には、大正から昭和にかけて四千人近い娼婦がいた。ちなみに同時期に東京の吉原にいた遊女は二千三百人ほどだったから、松島が日本最大規模を誇った遊廓だったといって差し支えないだろう。
 娼婦ばかりではなく、当然客で溢れていた当時の松島の様子をあらわしている歌がある。


”松島の松は枯れても漂客ゃ枯れぬ ひゃかしゃ松島一の客”


 この歌に使われているひやかしという言葉に、私は今も営業を続けている飛田新地のことを思い浮かべた。日本人ばかりではなく、インバウンド景気で外国人の姿も多く、通りには実際に遊ぶ客の数より、ひやかして歩く者の方が多いように私の目には映った。今から百五十年前にできた松島新地も客の国籍や身なりは変わっても、似たような空気が流れていたに違いない。
 松島新地の業者が記し、非売品となっている『松島新地誌』という本がある。それを読むと、松島の繁栄は一朝一夕になったわけではなかった。『松島新地誌』をもとに松島の歴史を繙(ひもと)いてみたい。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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