よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 松島新地は、軍隊の存在によって大きく発展するが、一夜で焼失したのも戦争による大空襲であった。色街から見た大空襲とはどのようなものであったのか。
 一九四五(昭和二十)年三月十三日未明にB29の大編隊が襲来し、大阪大空襲ははじまった。松島新地相談役の永沢仙太郎はその日のことを『松島新地誌』にこう証言している。


”忘れもしません。昭和二十年三月十三日の夜の十一時ごろでした。酒の不自由な時節柄とは申せ、どうにか手まわしした一ぱいの日本酒でささやかな役員会を開いているとき、警戒警報が鳴り渡りました。今夜はいままでのと違って相当大編隊による空襲があるとの情報が事前に警察からはいっていたものですから、役員には急いで帰宅してもらい、各部署につきました。間もなく二、三十分置きに連続の編隊空襲を受けたのですが、途端に郭内一せいに焼夷弾が落ち、一度にどっと燃えあがって、何をするいとまも、何を運び出す間もありませんでした”


 戦時中、二百五十軒の遊廓のうち疎開している店などをのぞいて、百八十軒が営業し、娼婦は千三百人が働いていたという。空襲では防空壕に避難していた十人ほどが亡くなった。
 松島新地は、空襲によって灰燼(かいじん)に帰した。死傷者が少なかったのは不幸中の幸いであったが、空襲後も行くあてがなかった娼婦たちもおり、役員たちは新たな営業場所を探さなければならなかった。すぐに港新地と今里新地などの業者と相談し、数軒の家を借りることができたが、それらの新地もその後の空襲で焼けてしまったのだった。やがて、住吉大社からほど近い場所にあった住吉新地の一角に家を借りることができ、一九四五年七月に営業を再開した。
 終戦を迎えると、仮住まいであった住吉新地には米軍がやってきた。松島新地の業者は、松島から住吉へ通っていたこともあり、いずれ松島で商売をしたいと考えていたが、松島新地周辺は公園となることが決まってしまった。帰る先を失った松島新地の業者だったが、現在の松島新地がある九条の地主たちが、経済振興のため九条で商売をしないかと声を掛けてくれたのだった。
 遊廓というのは、単純に性欲を処理する場所というだけではなく、地域振興の一助となる経済装置であるということが、その一件からも理解できる。そうして松島新地は、一九四六(昭和二十一)年十二月、現在の場所に二十軒の営業許可がおりた。ただ営業再開に至るまでには、もうひとつハードルがあった。建築資金などで五十万円が必要だったのだ。戦後の混乱期ということもあり、あてにしていた信用金庫は、貸してくれなかった。そんな窮地に助け舟を出してくれたのが、松島から飛田に移っていた同業者だった。飛田新地は空襲でさしたる被害を受けなかったので、変わらず営業を続けていて、松島新地の窮状にすんなりと資金を出してくれたのだった。
 営業再開は、一九四七年七月のことだった。一九五八(昭和三十三)年に施行された売春防止法を乗り越えて、今日に至るのである。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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