よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 大村が生前に予見したことは、ことごとくその通りになった。一八七七年には西郷隆盛ら不平士族による西南戦争が起こり、第四師団第八連隊の前身である徴兵された大阪鎮台の兵士たちは、勇猛で知られた薩摩士族に負けぬ戦いぶりを見せて、明治天皇からお褒めの言葉である戦功御嘉賞を賜っている。
 そして、砲兵工廠はフル稼働で武器を製造した。西南戦争では、大村の目論見通り兵器の生産拠点となった。二百万発の小銃弾を製造するなどして、政府軍の勝利に寄与したのだった。その後、日清、日露、さらには日中戦争、太平洋戦争と戦争の規模が拡大していくにつれて、砲兵工廠だけでは武器の生産が追いつかなくなっていった。日露戦争を例に取れば、ひとつの会戦だけで、工廠が三ヶ月間に生産する量の砲弾が消費されたのだった。
 工廠は、生産量を増やすため、民間にも委託するようになった。それを受け持ったのが、工廠で働いたことがある職工たちだった。工廠は、戦争中には多くの職工を雇い入れることができるが、戦争が終わると、人件費を抑えるため彼らを解雇した。そうした人々が独立し、近郊の農村に町工場を開いたのだ。大阪には、東大阪市をはじめとして、多くの町工場が存在しているが、それらの根っこには大阪砲兵工廠で培われた技術があったからだった。それらの工場が戦後は鉄鋼やアルミ加工、機械金属加工の生産拠点となり、大阪、そして日本の産業を支え続けた。
 大阪砲兵工廠は、一九四五年八月十四日の大阪大空襲によって灰燼に帰した。工廠内では三百八十二人の方が亡くなった。
 その日の空襲を経験した方々の手記が、『大阪砲兵工廠の八月十四日』(東方出版)に収録されている。そのうちのひとりで勤労動員によって、砲兵工廠で働いていた当時十五歳の生田穂さんの手記を抜粋したい。生田さんは、空襲当日は避難命令が出ていたことから工廠に出勤しておらず、工廠から三キロ離れた自宅にいたため無事だったが、家のまわりにも爆弾は落ちた。


”爆弾が落ちてくる時の音は、トタン屋根に大雨が降ってくるような「ザァー」という音です。けれど、あの、爆弾が全部、自分の頭に落ちてくるような気のする、異様な音響は、現在の平和な社会に、数々の騒音があるとは言っても、ちょっと比べられるものではありません。本当にあれは、身の毛がよだつ音です。(中略)
 翌十五日。玉音放送によって日本の敗戦を知らされ、その後、すぐに工廠に向かいました。
 途中、京橋駅南口あたりを通過する時、昨日の爆撃によって、高架線が無残にも破壊されているのが見えました。近づいていくと、五メートル四方もあろうかと思われる、巨大なコンクリートの塊の下で、多くの兵隊が圧死しています。下半身は下敷きになってつぶされ、鉄帽をかぶった顔面と手指は、なぜか風船のように膨張し、生きている人間の二倍位の大きさになっていました。皮膚の色が、黒人のようなチョコレート色になっているのにも、驚きました。(中略)それでも何とか、京橋地区第五工場に行ってみたのですが、ここも又、変わり果てた有様でした。一トン爆弾によって、工作機械群は完全に吹き飛ばされて跡形もなく、直径二十メートル位の、擂鉢状の穴が無数にでき、その穴の底に、少し水が溜まっている状態になっていました。(中略)大声で復旧作業に従事している人々がいるかたわら、工廠の備品らしき物を勝手に持って帰る人がいるなど、あの、規律正しくて、秩序のあった工廠は、どこへ行ったのかと思う混乱ぶりです。”

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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