よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

和歌山の天王新地を歩く


 和歌山の色街を訪ねたのは、信太山に行ってから十ヶ月近くが経った梅雨に入って間もない頃だった。JR和歌山駅のホームに降りると、どこからともなく豚骨スープの匂いが漂ってきた。和歌山といえば、ラーメン好きの間では、豚骨ラーメンが知られている。駅そばならぬ駅ラーメンが、駅舎の中にあるのだろうか。
 以前、和歌山を歩いた際に食べたこってりしたラーメンは、徳島のラーメンと似ていることを思い出した。関西のうどんはあっさりとした味なのにラーメンはこってりしている。昔ながらの関東のラーメンは醤油のあっさりしたスープなので、ラーメンの味は関東と関西では逆だなと、取り止めもないことを考えながら駅舎を出た。
 和歌山に着いたのは、昼過ぎだったこともあり、まずはホテルに荷物を置いて、夜になってから色街を訪ねてみることにした。
 ここ和歌山には、天王新地というちょんの間街がある。しかもこのご時世には珍しく、営業を続けている。
 しばし、うんちくを語らせてもらえば、天王新地の歴史は戦前に遡る。昭和初期にはすでに存在していた。色街が形成された大きなきっかけは、明治になって置かれた陸軍歩兵第六十一連隊の存在である。
 明治時代になると日本各地には連隊が置かれたが、それと同時期に、兵士たちを慰安するための遊廓が設置されている。終戦までの日本において、軍隊と色街はセットだった。ただ和歌山県は、群馬県と同じく、公娼制度に反対し、表向きは遊廓が存在しなかった。しかし、一九〇六(明治三十九)年に議会で認められると、新宮と大島、日高郡白崎の三ヶ所には遊廓が置かれた。ただ、和歌山市内に遊廓はなかった。遊廓への反対運動が根強かったのだ。
 遊廓は、兵士を慰労するだけではなく、地元にとっては、金を落とす経済装置でもある。行政に黙認される形で生まれた私娼窟が天王新地だった。
 戦前の記録では、四十三軒の店があり、八十七人の娼妓がいた。
 
 午後九時を回った頃、ホテルを出て天王新地へと向かうことにした。ホテル前に止まっていたタクシーに乗ると、運転手に行き先を告げた。
「去年も一度、お客さんと同じぐらいの年頃の人を乗せて、天王新地へ行ったことがあったんですわ。私も連れと昔はようけ行ってましたが、その頃から比べたら、ひどい寂れようですね。今でも三軒はやっていると思いますよ。最近ではみんなデリヘルですわ。好き好んで行く人は珍しいですよ。あんな所に行ってもババアしかいないですから、もし一発やりたければ、言ってください。本番ができるデリヘルを紹介しますから」
 年齢は六十七歳だという運転手は、気さくに天王新地の現状などを話してくれただけでなく、和歌山の風俗事情まで教えてくれた。
「つい数年前まで、市内のピンサロが数軒本番をさせていたんですけど、同業者から警察にタレコミがあったんでしょうね。全部潰れてしまったんです」
 話し好きなのだろうか、色街事情から個人的な話もしてくれたのだった。
「私の連れが、ちょんの間が好きで、天王新地によく付き合ったと言いましたけど、ちょんの間だとシャワーも浴びれんでしょう。それがどうも嫌でね。一回ぐらい上がったことがあったけど、それ以外は外で待ってましたね。遊んだのは、もっぱらソープでしたわ」
 和歌山市内には、ソープランド街が今も健在だという。運転手はさらに、天王新地だけではなく阪和新地という色街もあったと教えてくれた。私は阪和新地については初耳だったので、まずは潰れてしまったという阪和新地に向かってもらった。話を聞いているうちに、阪和新地の跡に着いた。
 通りにあった古い建物は、潰れた銭湯の建物だけで、あとはコンビニやマンションになっている。言われなければ、ここに色街があったことなど、他所の人間にはわからない。あえて色街の名残りと言えば、働く前に娼婦たちが通ったと思われる銭湯ぐらいだろう。
 阪和新地は戦前の私娼窟にルーツを持ち、昭和三十三年に売春防止法が施行されてからもしばらく営業していたというが、その面影はどこからも感じることはできない。今では幻の色街となってしまった。取材後に資料を見ると、阪和新地は昭和初期には存在していて、十三軒の店に二十七人の娼婦がいたと記されていた。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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