よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 私が入ったちょんの間は、古い木造建築で、何となくではあるが、積み重ねてきた歴史がそういう思いを起こさせるのか、どことなく空気が重い。
「古い建物だから、お化けが出そうだね?」
 彼女は、頷きながら言った。
「出るみたいやな。座敷童(わらし)。私は見たことないけど、今日もいてはるけど、前から働いてる姉さんが見たと言ってたで」
 三十分が過ぎて、下の階に下りると、先ほど遣り手婆だと思ったのは、二十年くらい前から働いているベテランの娼婦だった。
「私は座敷童、見たことあるよ。ちょうど私のおへそぐらいの背の高さなんよ。障子のすりガラスの所から頭だけが見えてな」
 彼女は真面目な表情で冗談を言っているようには見えなかった。
「座敷童は縁起がいいんよ。見た日は、ひっきりなしにお客さんがつくっていう話なんよ。そいで私が見た日も、お客さんが絶えなかったで」
「最近は見ますか?」
「全然、見えへんな。寂れてしまったから、どこかに行ってしまったのかもしれへんな」
「昔は賑やかでしたか?」
「私が働きはじめた、二十年くらい前で、七軒ぐらいだったかな。もともとは、百軒以上あったみたいやけど。この建物も社長によれば百年以上経っているみたいやし、昔は賑やかだったんちゃうかな」
 最後は思いもしない座敷童の話も飛び出した。この色街が長い歴史を重ねてきた証しでもある。
 いつまでも続いて欲しいなという思いで、天王新地を後にしたのだった。


新町遊廓跡の今


 大阪、そして和歌山の旅の終わり、私は大阪オリックス劇場前にある新町北公園のあたりを歩いていた。この場所は江戸時代のはじめに産声をあげた新町遊廓跡である。
 何かイベントが行われるのだろうか、公園の周辺は多くの人がところどころに屯(たむろ)していた。
 新町遊廓は、オリックス劇場の北を流れていた立売堀川(いたちぼりがわ)を北の境とし、南を流れていた長堀川を南限として広がっていた。色街の東側にも西横堀川が流れていたが、今では道路となっている。
 遊廓を囲んでいた堀はすでに消え、遊廓の建物も大阪大空襲で焼失し、付近はビルや住宅になって、遊廓だった面影を感じることはできない。
 新町北公園という名前のみが、かつて遊廓だったことを今日の人々に伝えているにすぎない。その名前すらも一般の人からしてみれば、遊廓だったことを伝える手がかりにもならないかもしれない。
 新町遊廓が開かれたのは大坂夏の陣の翌年のことで、大坂では最初に幕府の公許を得た遊廓であった。遊廓の発起人は、豊臣方の武将として大坂夏の陣で戦死した木村重成の乳母の子、木村又次郎である。
 木村又次郎は大坂夏の陣で豊臣家が滅びなければ、それなりの地位に上ったはずだが、時代のいたずらによって遊廓の経営者となった。ごくありふれた都会の風景を眺めながら、人生の数奇さに思いを巡らさずにはいられなかった。
 なぜ新町遊廓跡を訪ねたかというと、大阪から和歌山を巡る旅で、松島、今里、信太山、天王新地という今も生きている色街も目にしてきた。切ない話だが、いずれ世の中の流れが変われば、それらの色街もあっさり消えてしまうに違いない。そこで消えた遊廓跡には、どんな残り香があるのか、それとも何もないのか、改めてこの目と鼻で感じたかったのだ。
 その答えを言うと、何の匂いも景色も、人の気配も残っていなかった。語り継ぐ人がいなければ、いずれ人の記憶からも消え去るだけである。私はあらためて旅を続けなければいけないなと思ったのだった。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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