よみもの・連載

城物語

第一話『戦人の城(伊賀上野城)』

矢野 隆Takashi Yano



「長旅、さぞ御疲れになられたことでございましょう」
 上座にある翁(おきな)に、高虎はにこやかに言った。
「いやいや」
 翁は筋張った掌をひらひらさせて、首をゆるりと左右に振った。その緩慢な様と幾分曲がった背に、否応なく老いが滲んでいる。翁姿の徳川家康は、齢(よわい)六十七であった。すでに老境である。老いていて当然という年なのだ。むしろこの齢で、駿府から伊賀まで忍んで来ることのほうが、驚くべきことなのである。
「駿府から船で伊勢に着くと、そこから伊賀まではひと息じゃ。己が足で歩く訳でもない。駕籠に揺られ、退屈に耐えておれば良いだけ。疲れるほどのこともないわ」
 そう言って家康はからからと笑った。笑うと頬の肉が引っ張られて、皺が増える。昔は狸と呼ばれるほどにふくよかだった顔も、脂が落ちてすっかり細くなった。
 目を見開いた家康が、高虎の顔をのぞくように顔を前に突き出す。上座と下座である。どれだけ近づいても、息が触れ合う間合いではない。人に問いかける時、相手を正面から見据え、顔を突き出すのは家康の癖だった。それは年老いても変わらない。
「幾つになった」
「五十四にござります」
「そうか、もう五十四か」
 言ってまた、からからと笑う。ほんの数年前までは、こんなに笑う男ではなかった。将軍職を息子に譲ってもなお、駿府で権勢をふるっている。隠居して肩の荷が下りたという言葉は、家康には似合わない。だとすればやはり、この笑いも老いの成せる業なのか。
 家康の躰(からだ)からなにかが抜けようとしている。それは昔、秀吉にも起こったことだ。あの猿面冠者は、こうも穏やかに変わりはしなかった。己に近付く死の気配を恐れ、臨終の数年前からは、人が変わったように凶暴になった。結果、秀吉の横暴に振り回された者たちによって、豊臣家は覇権を失う事になった。晩節を汚すとは、まさに秀吉のことである。
「御主の癖じゃっ」
 家康が顔を突き出したまま言った。耳を不意に襲った大音声に、高虎は一度はげしく肩を震わせて、上座にある翁を見た。
「物思いに耽りだすと、人の話が聞こえぬようになる」
 たしかにしばしの間、思惟に耽っていた。高虎は頭(こうべ)を垂れる。
「面目次第もござりませぬ」
「良い、良い。儂も近頃、耳が遠うなってきてな。女どもの長話を聞いておるうちに、上の空になって、良う叱られる」
 家康がまた、朗らかな笑い声を放った。どうやらこの翁の晩節は、さほど汚れはせぬようである。
 が……。
 このまま平穏に全うするとも思えぬ。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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