よみもの・連載

城物語

第七話『姉の背中(白石城)』

矢野 隆Takashi Yano

「あんまり離れんじゃねぇぞっ」
 父の大声を背に受け、は薄桃色の単衣(ひとえ)の袖を揺らしながら林道を駆けのぼる。
「解ってるって」
 坂のしたに見える父に答えたのは、さきを走る姉であった。
 骨を貫くような厳しい冬の寒さを耐えた草木が、柔らかい温もりのしたでいっせいに芽吹いている。快い風が衣よりも鮮やかな桃色に染まる頬をやさしく撫(な)で、しんの心を躍らせた。甘い草の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、姉の背中を追う。春先のまだ肌寒い朝の山だが、うっすらと汗をかきはじめていた。
「置いてくよっ」
 駆けながら器用に躰(からだ)を反転させた姉が、しんを見おろしながら言った。しんは十一、姉は十三。ふたつ離れている。
「待って」
 言っている間にも、姉の背はどんどんと小さくなってゆく。
「待って姉さま」
 もう一度くりかえす。もちろん姉に届くはずもない。目的の場所はわかっている。四半刻も登れば辿(たど)り着く丘の頂だ。追いつけないのなら歩けばよいのだが、のんびりしていると怒られてしまう。頂で姉といっしょに花を摘む。病床の母に、すこしでも春の気配を感じてほしいからだ。
「待って……」
 おなじ言葉を三度、口にする。姉は右に大きく曲がった道のむこうに消えていた。
 昔からなにもかもこうだ。ご飯を食べ終わるのも、友達を作るのも、人を好きになるのも、いつも姉のあと。この世のすべてを、姉はしんよりさきに済ませてしまう。しんはいつも、満面の笑みを浮かべる姉のうしろを何歩も遅れてついてゆく。それが当たり前のことだと思っていた。でも、心のどこかでは、そう思う己を歯がゆくも思っている。
「莫迦(ばか)……」
 自分が哀れになって涙がこぼれそうになった。堪(こら)えようとうつむいたら、萎(しお)れた菜の花が目に映る。ふと、足を止めてひざまずいた。さきをゆく姉に踏まれたのだろう。茎の根元から折れてしまった菜の花は、まだ咲ききらぬ黄色のつぼみをちいさく震わせながら、薄桃色の掌(てのひら)に乗った。
「まだそんなところにいるの」
 菜の花から目をそらして見あげると、木々の隙間に立つ姉の姿があった。すでに頂に着いている。
「そんなところで止まってないで……」
 姉が言葉を呑んだ。その原因はしんにも解っていた。萎れた菜の花を手折り、立ちあがってから麓に顔をむける。頭上で激しい足音が鳴った。姉が走りだしたのだ。
「父さま」
 駆けようとしたが、足が震えて歩くのがやっとだった。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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