よみもの・連載

城物語

第八話『愚弟二人(高舘義経堂/衣川館 柳之御所)』

矢野 隆Takashi Yano

   三

 秀衡が死んで一年半の月日が流れた。
 義経は衣川館で穏やかな日常を過ごしている。
 夜が来て次の朝がくる度に、苛立(いらだ)ちだけが募ってゆく。
 いったい己はなにをしているのか。
 飯を食い、四つになった娘と戯れ、郎党たちと野駈けにゆく。やることといえばそれだけ。山深い陸奥の地は、冬になると雪に覆われる。そうなると何日も何日も家のなかに籠り、火の傍(そば)でじっと動かず、寒さが過ぎゆくのをただひたすら待つ。
 義経は安穏など望んでいなかった。
 本来なら今頃、鎌倉で兄とともに日の本の武士を従え、侍の政を行っているはずなのだ。それがどうだ。蝦夷の住まう地に閉じこもり、緩み切った暮らしに埋没している。このままなにも起こらずに老いて死んでゆくなど、義経には耐えられない。
 いっそのこと妻と子を殺して己も死のうか。そう考えたことも一度や二度ではない。
 弁慶からの報せでは、平泉に対する鎌倉からの圧力は日ごとに増しているという。いまや兄の力を恐れた朝廷も、いっしょになって義経追討を声高に叫んでいるそうだ。
 あの凡庸な藤原家の当主が憎らしい。
 兄と戦うにせよ、義経を差し出すにせよ、さっさと結論を出せばよいのだ。
 大将軍の職を辞したことを悔やむ。
 今わの際(きわ)の秀衡から国務を執り行えと命じられた時、義経は躊躇(ちゅうちょ)した。余所者(よそもの)である己が藤原家にかわって陸奥の国務を執れば、蝦夷たちの反発は免れないと思ったのである。蝦夷を敵に回してしまえば、義経は兄に抗(あらが)う術(すべ)を失う。そうなればもはや、義経は生きながらにして死んだも同然である。それだけは避けなければならない。その一心で、衣川館から動かなかった。
 それが完全に裏目に出ている。
 これほど泰衡が腰抜けだとは思わなかった。
 閏(うるう)四月三十日。
 春のうららかな陽気のなか、義経は衣川館の自室でぼんやりと外を眺めていた。館の南を衣川が西から東に流れている。そのむこうに中尊寺(ちゅうそんじ)のある関山がそびえていた。
 安穏……。
 糞喰(くそく)らえだ。
 義経の煩悶(はんもん)を打ち破ったのは、縁廊下をけたたましく踏み鳴らす弁慶の足音だった。
「義経様っ」
 自然と口許がほころぶ。
 面前に控えた弁慶の紅く染まった白目が、大事を告げている。
 義経は努めて穏やかに問う。
「いかがした」
「泰衡めがこの館にむかって兵を進めておる由にござりまするっ」
 やっと来たか……。
 あの愚鈍な男は、鎌倉へ恭順する道を選んだ。
「迂闊(うかつ)でござりました」
 眉間に深い縦皺を刻みながら、弁慶がつぶやく。
「衣川をへだてて柳之御所は目と鼻の先というに、関山と高館(たかだち)に阻まれて、敵の動きに気付けませなんだ」
 弁慶はすでに泰衡を“敵”と吐き捨てた。この男には、余人は敵と味方しかいない。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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