よみもの・連載

城物語

第九話『政道は潰えず(高知城)』

矢野 隆Takashi Yano

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 東洋が少林塾にあった間にも、世はめまぐるしく変遷してゆく。
 アメリカの総領事ハリスは日米修好通商条約の締結を迫った。国学の隆盛によって、幕府は朝廷より政を任されたに過ぎない存在であり、日ノ本の国の主はあくまで帝(みかど)であるという尊王思想が水戸を中心とした武士たちのなかに蔓延(まんえん)しはじめた。アメリカと条約を結ぶことになると、ロシアやイギリスなど他の列強も条約締結を迫ってくるのは火を見るより明らか。この難局にあって、将軍である家定(いえさだ)は病弱であった。
 帝を奉り異国を排斥するという尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想は、京の都を中心として、じょじょに広がってゆく。
 幕府としてもこの窮地をそのままにしておくつもりはなかった。家定の次の将軍の座を巡り、幕閣や有力諸大名が睨み合う。
 将軍との血のつながりが濃い紀州徳川慶福(よしとみ)を推す彦根の井伊直弼(いいなおすけ)に対抗したのが、尊王の思想の源流地とも呼べる水戸の徳川斉昭(なりあき)であった。斉昭は己の子で、一橋家の養子となっていた慶喜(よしのぶ)を将軍後継に推した。山内容堂は越前(えちぜん)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の斡旋もあり、一橋慶喜を推す。
 将軍後継を巡り、大名たちが暗闘を続ける最中、東洋にも再起の目が巡ってきた。
「わざわざの御足労、痛み入りまする」
 書状を広げた使者にむかい、東洋は深々と頭を下げた。上座にある裃(はかま)姿の使者が、静々と書状を折り畳む音が聞こえる。使者は旧知の者だ。小南五郎右衛門(こみなみごろうえもん)。側用役を務めるこの男は、江戸にある容堂公の側にいなければならない。その小南が土佐にいるのは、東洋のためだった。
 赦(ゆる)された。
 二年もの間、城下に行くことすら禁じられた東洋が、ふたたび容堂に仕えるには並々ならぬ根回しが必要だったはずである。
 ゆっくりと東洋は顔を上げ、小南を見た。
「世話をかけた」
「老人の頭を一度動かすだけのことが、なかなか面倒やったき」
 小南は笑った。東洋が先々代の国主、豊熈によって郡奉行に抜擢された時、この男もまた近習(きんじゅう)目付に任じられた。その頃からの間柄である。小南が言う老人とは、三代前の豊資のことだ。豊資の承諾がなければ、いかな容堂であっても東洋をふたたび政に加えることはできなかった。
「そいだけやないろ」
 二年ぶりに見た小南の顔はずいぶん細く見えた。長旅や豊資の説得でやつれただけとは思えない。
「儂んために江戸でもずいぶん骨を折ってくれたがやないがか」
「いやいや、儂はなんも」
 小南は掌を顔の前で振った。
「おまんが叩いた嘉兵衛様からも、良い加減許してやれち容堂様に申し入れがあったがぜよ」
「嘉兵衛様がか」
 酔って暴言を吐く赤ら顔が脳裏を過(よぎ)る。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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