よみもの・連載

城物語

第九話『政道は潰えず(高知城)』

矢野 隆Takashi Yano

 いささか酒が入り過ぎているようだった。傘に当たる雨の音が、やけに心地よく聞こえる。ほてった躰にやる気が満ち溢れていた。
「土佐のぉ高知のぉ……」
 鼻歌を口ずさんでいる自分に驚き口を噤(つぐ)む。二人に聞かれていないかと心配になりながら、東洋は照れ隠しに大きな咳払いをひとつした。
 その時であった……。
 人影が行く手をさえぎった。一人だ。頬被りをしている。両手を大きく広げ、ここから先は通さぬと無言のうちに語っていた。その手には白刃が握られている。その身は雨に濡れ、黒く染まって闇に溶け込んでいた。
 背後から悲鳴が聞こえた。老いた草履取りだ。前に立つ人影から目を逸らすことは出来ない。雨が気配を悟ることを邪魔している。御助けをと草履取りが誰かに哀願している。どうやら背後にも人がいるらしい。
「屋敷に走れ」
 若衆に告げる。
「し、しかし」
「良いから走れっ」
 東洋が怒鳴ると、若衆は喉の奥から甲高い声を吐き出して走りだした。前に立ち塞がる人影が脇を抜けようとする若衆を斬ろうとしたが、抜きざまに振り上げた東洋の刀がそれを阻む。若衆はこちらを見ようともせず、一心不乱に走ってゆく。屋敷は近い。四半刻も持ち堪えれば助けが来る。
 若衆のおかげでひとまず刀は抜けた。不意打ちをされなかっただけでも有難いと想いながら、正眼に構える。そのままじりじりと踵(かかと)でぬかるんだ砂利を削ってゆく。正面に立つ男に少しずつ半身(はんみ)になりながら、背後の気配をも視界に入れた。背後には白壁がある。飛び掛かられぬように、ゆっくりと後退しつつ、壁に背を付けた。
 刺客は二人だ。いずれも汚い布を頭から被っている。袴を着けず、まくりあげたぼろ布同然の衣の隙間からくすんだ褌(ふんどし)が覗いていた。こんな時に我ながら冷静なものだと心中でほくそ笑む。雨降る闇夜である。若衆が去った今、提灯(ちょうちん)の明かりもない。それでも闇のなかにはっきり男たちの装束が見えていた。
「おまんたちが上士っちゅうんなら、その化けっぷりは褒めてやらないかん。が、見た目通りに下士ちゅうんなら、自分等ぁの素性をみすみす晒(さら)すような真似(まね)しちゅうことを、叱らにゃいけん」
「おまんは今から死ぬんじゃ。そがいなこと考えることはないきに」
 大柄な人影の方がつぶやく。智の煌(きら)めきを感じさせぬ声だ。
「おまんら、武市に飼われちょるんか」
 二人は黙った。刀を構えたまま東洋は溜息(ためいき)を吐(つ)く。
「あん男は少しは使えるち思うちょったが、所詮(しょせん)こげなもんか」
 刺客たちはかかって来ない。一応、構えらしき形をしてはいるが、腰が入っていない。怯(おび)えの所為か躰が硬くなっている。無理もない。道場で木剣を振ってはいても、抜き身を握って敵と対峙したことなど一度もないのだろう。
 東洋はある。
 若い頃、無礼な若党を斬った。一度目の斬りは浅く、男は逃げた。東洋は追い駈(か)け、きっちりと始末した。無礼打ちということで咎めは受けなかった。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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