よみもの・連載

城物語

第十話『兄ゆえに弟ゆえに(富隈城)』

矢野 隆Takashi Yano

 重い躰(からだ)を引き摺(ず)るようにして、義弘は長い石段を登る。
 富隈(とみくま)城の本丸へと続く石段であった。
 この城は兄が住む城だ。秀吉の九州征伐に屈服した島津家は、薩摩大隅(おおすみ)二国のみを安堵(あんど)された。それと引き換えに、島津は豊臣家の家臣となった。義弘は国許(くにもと)にある兄の代わりに、豊臣政権との折衝を任されることになる。武辺者の義弘を秀吉は気に入り、島津の当主同然に扱った。その結果、兄の義久は大隅に追いやられ、秀吉は薩摩を義弘に任せる。秀吉への恭順を示すため、兄は義弘の子である忠恒(ただつね)を己が後継者と定め、家督は譲らぬまま隠居の姿勢を見せ、本拠である内城(うちじょう)を退いた。大隅に移った義久が築かせたのが、富隈城である。
 どれだけ義弘が秀吉に気に入られようと、島津家の当主は兄だ。島津の臣にとって、義久こそが仕えるべき主である。
 その兄は、今度(こたび)の戦に兵を出すことを拒んだ。どれだけ義弘が援軍を求める書を送っても、兄は黙殺し続けた。そんな義久に忠恒も従い、兵を出さなかった。
 なぜ兄は動かなかったのか。
 怒りが義弘の身を焼く。
 疲れ果て、今にも倒れそうになる躰をなんとか保てているのは、兄に対する怒りの成せる業であった。兄が兵を送ってくれていたならば、豊久たちを死なすことはなかった。己が生き恥を晒(さら)すこともなかった。存分に戦い、存分に死ぬことができたはずだ。
 寡兵(かへい)であったが故に蛮行に走らねばならなかった。ああせねば己は死ねなかったのだ。
 なのに義弘は生き残り、豊久は死んだ。
 兄が動かなかったからである。
 富隈城の本丸館は、平野に突き出た丘の上にあった。丘の四方に張り巡らされた堀の内側に、斜面を囲むようにして廓(くるわ)が築かれている。
 義弘は廓を抜けて本丸を目指す。築かれて間もない城は、真新しい。見つめているのは足元の石段のみ。角の立った石段を一歩一歩踏みしめながら、義弘は兄の待つ館への道を急ぐ。
 気は急(せ)いているのだが、足取りは重い。齢(よわい)六十六、躰が思うようには動いてくれない。昔は重さなど感じなかった甲冑(かっちゅう)が、やけに躰にまとわりつく。がしゃがしゃと音を発(た)てる草摺(くさずり)が、足の動きを邪魔して鬱陶(うっとう)しい。
 屈強な薩摩隼人(はやと)のなかでも抽(ぬき)んでて太い義弘の骨が軋(きし)んでいる。兄への怒りがなければ、一歩も動けなかった。
 己とはまったく似ていない兄の顔を脳裏に思い浮かべる。
 細い顎に薄い眉、常に青紫色に染まった唇の上に、すらりと鼻筋が通っている。目は細く、一重の瞼(まぶた)の下にある瞳には、智の輝きが静かに閃(きらめ)いていた。
 幼い頃から武の道以外に興味が無かった義弘とは違い、兄は学問を好んだ。思えばあの頃から兄は、ゆくゆくは当主として島津家を支えるのだという自覚があったのだろう。刀や槍を持つよりも、書を繙(ひもと)き、筆を取ることに時を費やしていた。
 そんな兄のことが嫌いではない。今でもそうだ。心中には兄に対する怒りが満ち満ちてはいるが、それでも心底から嫌いにはなれない。兄が政道を歩んでくれるからこそ、己は武道を貫ける。その想いは、幼い頃から常に義弘の心の一番深い所にしっかりと根を張っていた。
 だからこそ……。
 だからこそ腹が立つのである。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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