よみもの・連載

城物語

第十話『兄ゆえに弟ゆえに(富隈城)』

矢野 隆Takashi Yano

        *

 なんという顔をしているのだ……。
 下座(しもざ)に控える弟を見つめて、島津義久は心につぶやく。
 弟、義弘は平伏すらせず、真っ直(す)ぐにこちらをにらんでいる。大広間に来てからずっと、そのまま動かない。
 義久は島津家の当主だ。兄弟である前に、主従の違いがある。義弘がどれだけ太閤秀吉に愛され上方で当主同然に扱われていたとしても、島津家の所領の中枢である薩摩を与えられようとも、それでもやはり島津家の当主は義久なのだ。上方と薩摩は遠い。薩摩の侍たちにとって、島津家の主(あるじ)はどんなことがあっても義久なのである。
 武を尊ぶ弟を慕う者は多い。だからこそ上方で大戦が起こることを知り、義弘を助けんと多くの家臣たちが、義久の命に背いて海を渡った。
 上方にのぼった家臣たちを責めるつもりはない。義弘の武が島津を支えてきたのは間違いないし、義久自身もそんな弟に幾度も助けられてきたのだ。
「兄者」
 静寂に耐えかねたように、義弘が兄を差し置き口を開いた。主が声をかけるより先に家臣が言葉を吐くなど、無礼千万である。本来、弟はそういうことを嫌う性質だ。島津の兵を掌握する弟である。規律を重んじなければ兵の統率は取れない。無礼な行いをする者を厳しく処断する弟を、義久は幾度も見てきた。そんな弟が無礼を承知で声をかけてきたというのは余程のことだ。
 義久は背筋を伸ばして弟を見つめる。
「良う戻った」
 静かにそれだけを告げる。
 弟の太い鼻が一度だけひくりと震えた。
 怒っている。
 理由は聞かずともわかる。
 だからといって弟の想いを汲(く)んでやり、優しい言葉をかけてやるつもりはない。
 まずは聞く。
 どれだけ聞くに堪えぬ雑言であろうとも、まずは弟の心の裡(うち)にある想いを吐き出させてやるべきである。
 胡坐(あぐら)をかいた膝の上にある義弘の拳が震えていた。それを覆う手甲は、埃(ほこり)と泥にまみれ、もはや元が何色であったのかすら判然としない。
「良う戻ったとはどういう御積りでごわんど」
「そのままの意味じゃ」
 弟の大きな拳が床板を叩いた。己とは似ていないぎょろりと大きな目がいっそう見開かれ、兄を捉えて放さない漆黒の瞳には、怒りの光がぎらついている。
「儂を慕うて上方に集まった者は、千五百を越えとりました。そん中で、薩摩に戻って来た者は八十人余りじゃ。豊久は死んだぞ兄者。儂を庇(かぼ)うて死んだのじゃ。儂一人が逃げ帰って、良う戻ったと言われて、なんと返せば良かとでごわすかっ」
 義弘の怒りの訴えを聞きながら、義久は左右に並ぶ家臣たちに目をやった。主の意図を汲んだ男たちは、義久と義弘に礼をしてから静々と大広間を後にした。その間も弟は、上座にある兄をにらんだまま微動だにしない。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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