よみもの・連載

ポンコツ列伝

第一話 旗本たいこ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

   *

 どこへ行こうか。荷物は三味線ひと棹(さお)と、襷掛(たすきが)けに背負う小さな風呂敷包みのみ。足の向くまま気の向くまま、露八はふらふらと旅していた。
「海は、いいな。でっけえや。沈んだ気持ちも軽くならあ」
 文久二年、盛夏六月。伊豆(いず)の南端・下田(しもだ)であった。
「ん? あの船、見覚えがあるな。咸臨丸(かんりんまる)……だっけか」
 吉原にいた頃には、船遊びの宴席に呼ばれる晩もあった。その折に見た船だ。三つの帆を備えた洋式の蒸気船は、確か品川(しながわ)辺りに停泊していた。
 向きからして、西へ行くのだろうか。思いつつ眺めていると、次第に舳先(へさき)がこちらに向いてきた。どうやら下田湊(みなと)に入るらしい。
「こりゃいい。路銀、稼げるかも知れねえや」
 当てのない旅も三ヵ月を過ぎ、いささか懐が寒くなり始めていた。
 咸臨丸ほどの船に乗る者なら、それなりの要職にあるか、さもなくば幕府から特に公用を命じられた身だ。金は持っている。岡場所や宿場で女を買って、宴席を楽しむ夜もあろう。まずは顔を繋(つな)ぐところからだと、露八は湊へ足を向けた。
 船からは二十幾人ほどが降りて来た。が、どうしたことか。戸板のようなものに人を乗せて、それを四つも運んでいる。
「もし。そちら病人さん? それとも怪我人(けがにん)ですかい」
 気安く声をかけるのも、たいこ稼業で慣れっこである。と、やや年嵩(としかさ)の――父よりは幾らか若いだろうか――役人と思しき男が、眼差(まなざ)しに「面倒な」と滲ませた。
「何だ? 見たところ旅の芸人といったところだが」
「荻江露八ってえ、たいこもちでさあ。それより旦那。そちらの方々、どうなすったんです」
「麻疹(はしか)だ。伝染(うつ)るといかん。向こうへ行け」
「あっし、麻疹は餓鬼(がき)の頃に済ませてますんで」
 忙(せわ)しない歩みに付いて行きながら言葉を交わし、荷の風呂敷から紙の小袋を取り出した。
「麻疹に効く薬はありやせんが、熱冷ましなら持ってますぜ。吉原に来た富山の薬売りから買ったもんですよ。間に合わせには、なるんじゃござんせんか」
 役人が「お」と目を丸くした。
「良いものを持っているな。売ってくれ」
「いえいえ、差し上げますよ。たいこが売るのは笑いだけ、ってね」
 にこやかに薬を差し出しつつ、露八は「その代わり」と続けた。
「旦那方、お仲間が麻疹じゃあ、しばらく下田にいるんでやしょ? 退屈凌(しの)ぎに一席設ける晩があったら、是非あっしを呼んでくだせえ」
 役人は少しばかり難しい顔をしたが、ひと呼吸置くと苦笑を見せた。

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

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