よみもの・連載

ポンコツ列伝

第二話 わしは腹を切るぞ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

 ともあれ、わしは尾張に留め置かれた。信長殿との縁はこの時である。後に織田と今川で人質を交換するに至り、我が身は今川に送られた。長じて松平の家を再興し得たのは、やはり義元公のお陰だろう。
「今川家中での安泰か。相変わらず頭は上がらんのう」
 あ。今川が嫌な訳ではないぞ、念のため。笑い顔で言った軽口なのだから、これこそ分かってもらわねば困る。困るのだが、酒井はその「困る方」に受け取るのだから余計に困る。
「ご無念にござりましょう。されど今しばらくご辛抱を。此度の戦で当家の名を上げ、続く戦でも功を重ねて、いつか今川家中の柱石よと讃えられるだけの家柄に――」
 言いつつ「よよ」と泣き崩れた。先まで笑っていたというのに忙しい奴だな。気の病でも患っておるのか、おまえは。仕方ない、助けてやろう。これでも当主だから、こういう時にどう言えば良いかは心得ている。
「泣くな。お主らを頼みにしているのだ」
「……はっ。必ずや、ご信頼にお応え致しまする」
 涙を拭ったと思ったら、また血気に燃えて「うおお」と吼(ほ)え、陣屋を出て行った。焚(た)き付けてしまったようだ。酒井がこんなにも戦馬鹿なのは、半分くらい、わしのせいかも知れない。
 そうこうしている間に夜が白んでいた。丑三(うしみ)つ時(二時頃)に出陣して大高に兵糧を入れ、さらにこの丸根砦まで落としたのだから当然か。義元公が大高城に入ったら、すぐに次の軍(いくさ)評定となる。少しでも身を休めておかねばと、日の出まで眠った。
 しかしながら、中々ご到着の報が入らない。輿(こし)を使っておいでゆえ、遅いのだろうか。大高に入るのは昼過ぎになるかも知れない。もう少し眠っておけば良かった。
 などと思っていたら、いきなり大雨が降った。未(ひつじ)の刻の初め頃(十三時)だ。この雨では輿の行軍はさらに遅れるだろう。致し方ない、今は待つのみ。
 待つ。待つ。雨が、ぱたりと止(や)んだ。なお待つ。待つ。待つ。
 来ない。もう申(さる)の刻が始まろうという頃(十五時)だ。義元公は何をしておられるのやら。ろくに眠らず待ったせいで、気を抜くと船を漕(こ)ぎそうになる。
「い、一大事。一大事にござりますぞ」
 慌てふためいた大声で、顔が撥(は)ね上がった。
 いかん、つい居眠りを。いや違う。眠ってなどいなかった。眠っているように見えたなら、それは見間違いだ。わしは何も知らん。
 口元の涎(よだれ)を拭いつつ、声の主に目を向ける。案の定、酒井だ。騒がしい奴め。またぞろ血気に燃えて笑っているに違いない。と思ったのだが、大声にはおよそ似つかわしくない呆(ほう)け顔を晒(さら)している。戦馬鹿が、ただの馬鹿になってしまったか。それはそれで心配である。
「どうした」
「いや、一大事なのです」
「それは聞いた。何があったと訊(たず)ねているのだが」
 酒井の喉が、大きく上下に動いた。
「今川の、ご隠居様が。ですな。その。う、うち、討ち死になされたと」

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

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