よみもの・連載

ポンコツ列伝

第二話 わしは腹を切るぞ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

「は?」
「今川義元公、討ち死になされました」
「いや! おまん、ほんなん噓(うそ)だら!」
 つい三河弁が顔を出してしまう、それほどの驚きだった。
 今川勢はひと所に固まっていない。総勢四万五千は、大高城と鳴海城、そして昨晩落としたこの丸根砦と隣の鷲津砦、さらに三河に残した抑えの兵まで合わせた数なのだ。だが、それでも義元様の手許(てもと)には少なくとも五千の兵が残っていたはずだ。それが討ち死にとは。
「噓ではござりませぬ」
 酒井の顔は呆けたものを通り越し、薄笑いになっている。と、今度は泣きそうになりながら捲(まく)し立てた。やはり気の病なのか。
「織田は二千の兵を動かし、昼過ぎの大雨に紛れて桶狭間山(おけはざまやま)の義元公ご休所に迫ったとのこと。兵共が雨降りに気を抜いておったため、真正面から挑まれたにも拘(かかわ)らず、迎え撃つこと能(あた)わず。義元公は勇ましく戦われるも、ほどなく囲まれ、敵の手に掛かった由(よし)にござります」
 いかん。聞いておるうちに、わしの顔も呆けてきた。いや、確かにこれは呆ける。困ったことに、この阿呆面(あほづら)は拭い去れない。
「大高城から何と言ってきている。鳴海の城からは?」
「それが、どちらも下知(げじ)を寄越してこられませぬ」
 皆が皆、天地が返った思いなのか。まあ当然だろう。だとすれば、これ以上は戦などしたくない。嫌と言ったら嫌だ。心を乱した味方など当てにしていては、並の戦より危ない。
「逃げるしかござらん。これへ参じたのも、殿をお連れするためでして」
「え?」
 あまりの珍しさに、元々丸い我が目がなお丸くなった。戦馬鹿の酒井が戦わずに逃げると言い出すなど、天変地異の前触れか。そうか、昼過ぎに降った雨はそのせいだ。いやいや、前後が逆だ。わしも大いにうろたえている。
「逃げられるのか? そもそも逃げてどうする」
 義元公が討ち死にとなれば、今川領を取り囲む諸国が攻め立てて来るのは明らかだ。それも我が国、三河は大変である。何しろ織田領のすぐ東なのだから。
「今川の助けがなければ、松平は織田に敵(かな)わんぞ。先々の見通しが立たない。それより、逆に織田に降(くだ)った方が危なくない気がする」
「何を仰せか。容易く『降る』などと! 先々の道は我らが切り拓いてご覧に入れますゆえ、今は逃げることをのみお考えくだされ」
 何としたことか、酒井がまともなことを言った。驚いている間に右の手首を「御免」と摑(つか)まれて、陣屋の外に引き摺(ず)り出される。

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

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