よみもの・連載

ポンコツ列伝

第二話 わしは腹を切るぞ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

 丸根砦の内には今川方の兵が大勢いた。この砦を織田に奪い返されぬようにと、大高城から寄越された頭数だ。義元公の討ち死にはまだ知らないようで、皆が暢気(のんき)な面を晒していた。
 この兵たちに悟られたら大騒ぎになって逃げられなくなる。酒井に耳打ちされて頷(うなず)き、兵の目を盗んで進んだ。すると、次第に我が家臣が寄り集まって来るではないか。
「おまえ、皆に手を回していたのか」
「いえ。此度の報(しら)せを共に聞いた皆が、逃げたが良いと申しましたもので。それがしは皆に従ったに過ぎませぬ」
 おい。自分では何も考えていなかったくせに、先々の道は我らが切り拓いてだの何だのと説法に及んだのか。先に「逃げられるのか」と訊ねたのは、そこら中に織田の兵がうろついているはずだ、ということなのだぞ。これは考えていたか? ええ?
「む? 殿、如何なされました」
 嗚呼(ああ)。やはり、考えていなかったか。織田の兵に囲まれることに思い至っていない。そういう顔である。
 暴れたくなってきた。敵だらけの中を主従のみで逃げるなど、退(ひ)き戦より難しいではないか。いかん。もう終わりだ。だから戦は危ないというのに。
 などと取り乱していたのだが、外に出れば意外にも敵の姿がない。まだ追っ手が出されていないのか。これ幸いと喜ぶ家臣に促されて、主従十幾人で野に紛れた。
 そこから先は、とにかく走れ、何でも構わぬから急げと追い立てられ、休む間もなく駆け足を続けた。
 とは申せ、人には限界というものがある。昼下がりから夕闇の頃まで走り通しで、胸が潰れそうになってきた。いかん。死ぬ。戦ってもいないのに、走るだけで死んでしまう。家臣たちも墓場から這(は)い出て来たような顔ではないか。
 と思った頃、川が見えた。間違いない。矢作川(やはぎがわ)、尾張と三河の国境(くにざかい)だ。家臣たちが「おお」「やったぞ」と騒いでいる。
 やれやれ、ようやくひと安心だ。それでも心の中に溜息をついた。戦とは、やはり気の進まないものだ――と。

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

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