よみもの・連載

ポンコツ列伝

第二話 わしは腹を切るぞ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

「何か?」
 いや。その射すくめる眼差(まなざ)しにこそ「何か?」と言いたい。命を永らえなさいという教えに従うまでは良いが、代償が「琵琶湖を飲み干せ」という難題に等しいとあっては、その。
 問答をしていたら、寺の外が騒がしくなった。まだ少しばかり遠いが、敵が攻め寄せ始めたのだ。そこへ、気色ばんだ顔の酒井が白い大旗を運んで来た。
「住持様。これで、よろしゅうございますか」
 旗には墨痕も鮮やかに「厭離穢土 欣求浄土」と記されている。住持は「十分です」と応じ、わしに向き直って、またも修羅の如き眼差しを見せる。
「この世を統べ、皆が安んじて暮らせる楽土と成す。その気概をお示しあってこそ、ご先祖様に顔向けできると申すものにござりましょう」
 そうか、石川。住持に立ち会いを頼むと言いつつ、実のところは思い止まらせてくれと頼みに行ったのか。腹を切れば痛いということは、おまえも分かっていたのだな。いや、それでも腹は切るつもりだったぞ。噓ではないぞ。
「さあ殿。お立ちなされませ。この旗の下、寺の皆も共に戦うてくださるそうですぞ」
 顔つきから察してはいたが、酒井はすっかり戦う気になっている。そして住持も「戦わずして何とする」という眼差しだ。
「……良くぞ道を説いてくだされました。この元康、たった今より生まれ変わったつもりで教えに従って参りましょう」
 重ねて断っておくが、覚悟は噓ではなかったのだ。いや、本当に。
 ただ、流された。そう。流されてしまったのだ。嗚呼、齢(よわい)十九。未熟なわしの夏五月。
「いざ! 旗、掲げい」
 酒井の勇んだ声に応じ、先ほどの旗が高々と掲げられた。家臣たちは無論のこと、寺の僧兵もここを死に場所と定めて奮戦した。わしも必死で弓を引き、指が擦り切れるまで放ち続けた。
 すると。どうした訳か、勝ってしまった。寺を囲んでいた兵が少なかったせいだろうか。
 或(ある)いは、他の力が働いたのかも知れない。言ってしまえば、「厭離穢土 欣求浄土」の旗だ。当世では、あちこちに一向一揆(いっこういっき)が起きている。一向宗門徒は仏法の旗の下に戦い、喜んで死んでゆくそうだ。これは恐い。近寄りたくない者共である。こういう話を敵が知っていて、我らの掲げた旗の文言に「うわあ、一向一揆だ」と勘違いして恐れたのではないか。そういう線もあり得る。
 いずれにしても九死に一生、否、もはや十死に一生と言って良い。ともあれ仏法の旗は使いでがありそうだ。この先も我が本陣に掲げておくことにしよう。

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

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