よみもの・連載

ポンコツ列伝

第二話 わしは腹を切るぞ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

    *

 あの桶狭間の戦いから実に十二年が過ぎた。人の命運というのは、まこと不思議なものだ。心の底からそう思う。大樹寺で命拾いをした後、我が命運は大きく変わった。信長殿が今川を攻めず、尾張の北の隣国・美濃(みの)に目を向けてくれたのが大きい。
 それには二つの理由があるだろう。
 第一に、義元公を失った今川家が大揺れに揺れていたからだ。
 信長殿にしてみれば、これに乗じて仕掛け、領を切り取ることもできたはずである。だがその折の今川は、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河を領する大国だった。如何に弱っていても、下手に手出しすればしっぺ返しを喰(く)らうやも知れぬ。ならば捨て置け、そうすれば今川は「国内を鎮めるのが先」と考える。信長殿は斯様(かよう)に判じたのだろう。
 実のところ、信長殿にそう思わせる下地は確かにあった。
 その発端は、桶狭間からわずか三ヵ月の頃だった。今川の盟友こと相模(さがみ)の北条(ほうじょう)家が、越後(えちご)の長尾景虎(ながおかげとら)に襲われて援軍を求めてきたのだ。
 長尾がこの動きを見せたのは、織田に大敗したばかりの今川には援軍を出す余裕がなく、北条だけが相手なら勝てると判じたからであろう。言ってしまえば今川は見くびられたのだ。
 これに憤ってか、亡き義元公の後を継いだ氏真(うじざね)公は北条に援軍を出した。理の当然として、今川は織田に兵を向ける余裕がなくなってしまった。
 そして第二の理由である。
 言いにくいことなのだが。先の話からも分かるとおり、氏真公は、その。
 少しばかり、阿呆(あほう)だった。
 いや。剛毅(ごうき)なお人柄ではあったし、大将として不足とは言いきれない。だが惜しむらくは、人の目が常に曇っているものだということを分かっておられなかった。
 北条に援軍を求められて応じたのは、父・義元公の残した盟約を重んじたのだと言えよう。これもひとつの供養であったはずだ。しかしながら、今川家中の受け取り方は違う。父の弔い合戦を挑むこそ当然と考え、織田に仕掛けぬ氏真公を弱腰と見くびった。長尾に見くびられ、さらに家臣にも見くびられたのである。少しばかり不憫(ふびん)になってきた。
 そんな訳で、今川の家臣は次第に離れていった。人が減ればさらに余裕がなくなる訳で、家臣の望む弔い合戦もできなくなるというのに。氏真公は確かに阿呆だったが、家臣たちも良い勝負である。
 いや、これは恐いぞ。何しろ周りが阿呆だらけなのだ。盆暗の群れに囲まれておっては、いつ巻き添えを喰うか分からん。ある意味で戦より危ない。
 そこで、わしも今川を離れて織田に盟約を申し入れた。信長殿も「うつけ」と呼ばれるほどの御仁だったが、少なくとも義元公を討って勢いがある。こちらに擦り寄った方が、幾らかでも身を守りやすいと考えたのだ。
 この申し出は快く容れられ、わしは織田の盟友となった。
 ついでに、松平の家名を改めた。その昔、三河には清和源氏義国(せいわげんじよしくに)流の新田(にった)氏、そこから枝分かれした世良田(せらた)氏または得川(とくがわ)氏と名乗る氏族があった。わしはその得川の末裔(まつえい)を称し、嘉字を当てて徳川(とくがわ)を名乗る。さらに義元公から偏諱(へんき)された「元」の一字も捨て、名も家康(いえやす)と変えた。

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

Back number