よみもの・連載

ポンコツ列伝

第二話 わしは腹を切るぞ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

    *

 わしに恥をかかせた武田信玄は、翌年になって、上洛の途上で死んでしもうた。ざまを見よ。何が甲斐の虎じゃ。あの世で焼き味噌でも食らっておるが良い。
 ともあれ信玄の死によって、信長殿は諸国の包囲を脱する。
 以後の織田は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。足利の幕府を滅ぼし、畿内を平らげてゆく。あちこちに謀叛(むほん)を抱えてはおったが、それはそれ、攻め滅ぼす者はまた別の話とばかり、瞬く間に並ぶ者なき力を付けていった。
 一の盟友として、わしは信長殿をこうお呼びするようになった。
 上様、と。
 腰巾着と笑わば笑え。血筋を飾り立てたところで、所詮は源氏の庶流の分家筋と噓を――もとい、言い張るのが関の山の徳川なのだ。自分が凡庸だと分かった以上、身のほどを弁(わきま)えるべきである。世を見渡してみよ。自身を買いかぶって謀叛した阿呆共は、悉(ことごと)く上様に滅ぼされておるではないか。ゆえに、腰巾着だろうと何だろうと、これで良いのだ。わしは悟りを開いた。
 そして今年の三月、上様の手によって、怨(うら)み重なる武田がついに滅んだ。まあ先代の信玄に比べれば、当代の勝頼(かつより)など小物に過ぎぬ。何しろ徳川勢が戦に及ぶ前に、あっさり滅んでしもうたのだ。わしがしたことと言えば楽な調略(ちょうりゃく)のみ。勝頼を焼き味噌の同胞に引きずり込みたくはあったが、そこは致し方なかろう。勝った上で漏らす不平は糞の如きものである。
 戦勝に際し、わしには駿河一国の恩賞が下された。次いで安土(あづち)城で歓待され、さらには京見物をさせてやると言われた。長年に亘(わた)って従ってきたのが認められたのだろうか。
 とは申せ、である。正直なところ、昨今の上様は何を考えておいでなのか分からん。まこと、さっぱり分からんのだ。斯様な人の気前の良さは逆に恐ろしくもある。されど斯様な人だからこそ、下されるものを要らんと言えば余計に後が恐い。くわばら、くわばら。身を守るには、やはり何もかも従うのだ。誇りを捨ててわしは生きる。
 そのつもりで、京見物に来たというのに。
「おまん! そんなん噓だら」
 あまりの驚きに、ついつい三河弁が顔を出してしもうた。何しろ、上様が討たれたという報せなのだから。
「偽りにあらず。本日六月二日早暁、織田信長公、明智光秀(あけちみつひで)が謀叛により本能寺(ほんのうじ)にご落命とあいなりましてございます」
 伝令の者が重ねて言う。それでも信じられん。こちらも重ねて「噓だら?」と目で確かめたのだが、何たることか、首を横に振られてしもうた。
 ええと。どうするのだ、これは。
 わしは今、三十余の家臣と共に堺(さかい)の町におる。元々の目的が京見物であったゆえ、兵は連れておらん。本能寺は京の御所よりやや南で、堺から見ればずいぶん北に離れておるのだが、明智の謀叛が明け方ということなら相当に危うい。報せを受けた今は昼過ぎなのだ。つまり。
「明智の兵は、もう堺に向いておるのではないか」
 恐る恐る傍らに問うてみれば、即座に「そのとおりです」と返ってきた。

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

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