よみもの・連載

ポンコツ列伝

第二話 わしは腹を切るぞ

吉川永青Nagaharu Yoshikawa

    *

 信長公が明智に討たれ、その明智も羽柴秀吉(はしばひでよし)殿に討たれた。以後は秀吉殿が織田家の実を握って、瞬く間に全てを掠(かす)め取ってしまった。
 その頃、徳川は三河・遠江・駿河に加え、甲斐と信濃(しなの)も従えていた。五ヵ国、百五十万石である。雌雄を決するつもりで戦えば、秀吉殿に勝てぬことはなかったろう。
 されど、わしはその道を取らなんだ。初めは抗(あらが)っておったのだが、織田をそっくり呑み込んだ者が相手では、勝ったとて深手は避けられぬ。それでは面白くない。だいたい、そういう戦は危ないではないか。いや、戦というのは押し並(な)べて危ないものだが、一層危ない道を選ぶのは余計に危ないのだ。何やら頭の悪そうなもの言いだが、間違ってはおらぬゆえ良しとする。
 かくして、しばらくの後、秀吉殿に膝を折った。そして豊臣(とよとみ)の――秀吉公は禁裏(きんり)から関白の位と新姓を賜った――天下統一に力を貸し、五ヵ国を治める大身、家中第一として政(まつりごと)を執り行なってきた。いつまで経(た)っても誰かに従うばかりの身だが、少なくとも今川義元公や織田信長公に従うておった時よりは多分に恵まれておったろう。
 そのままでも良かった。が、そのままで良いとは言えなくなった。
 秀吉公は早くに耄碌(もうろく)し、朝鮮などに兵を出して諸大名に負担を強いた。これで嫌気が差した者も多かろう。加えて、養子の秀次(ひでつぐ)殿を切腹に追い込んだ挙句、未だ稚児の実子・秀頼(ひでより)殿を残して三途(さんず)の川を渡ってしもうた。
 つまりは、好機なのである。わしは天下を奪い取りに掛かった。
 いや。悪しき行ないではない。考えてもみよ。目の前に千金、万金が積み上がっていて、いつでも取れるようになっていたら、どうする。取ってはならぬものであれ、取りたくなるのが人情であろう。誰でもそうする。わしも、そうする。ほれ見よ、わしは悪くあるまい。
 あれこれの策を講じた末、政敵・石田三成(いしだみつなり)と美濃関ヶ原(せきがはら)にて決戦に及ぶ。この戦に勝って、わしは天下を握った。禁裏も「天下人は家康なり」と認め、将軍の位を宣下なされたのだ。
 もっとも豊臣は未だ生き残っており、徳川は将軍家ながら豊臣の家臣という、訳の分からぬ形になってしもうた。
 ゆえに、わしは豊臣をも滅ぼしに掛かった。いや。悪しき行ないではない。目の前に千金、万金が、以下略。多分わしは悪くない。
 そして先ごろ、ようやく豊臣を滅ぼした。関ヶ原から実に十五年の月日を費やしておる。
 長かった。実に長かった。数々の苦難を乗り越えて、わしは齢七十四を数えておる。もう少し過ぎて年が明ければ七十五、間もなく命も尽きる頃であろう。
 既に将軍位も子の秀忠(ひでただ)に譲った。秀忠も、いずれ子に位を譲るだろう。徳川の世が長く続かんことを。そのために、天下を取るまでの道のりで学んだあれこれを伝えたい。
 それが、この遺訓なのだが。
「何です、これは」
 我が側室・阿茶(あちゃ)に「どうだ」と見せたら、この上ない呆れ顔を向けられた。いささか腹立たしい。
「何ですも何もない。子々孫々への遺訓だと申したであろう。そも人の上に立つ者とは――」
「ご遺訓だということは、先ほどお聞きいたしました。されど、この二つめに書かれておるのは何ですか。わたくしは得心致しかねます」
 遺訓の冒頭に、わしはこう書いた。

 人の一生は重荷を負(おう)て遠き道をゆくが如(ごと)し 諦めるべからず

 二つめとは、つまり「諦めるべからず」だ。

プロフィール

吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。

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