-短編ホテル-「青い絵本」

青い絵本

桜木紫乃Shino Sakuragi

 木曜の夜、美弥子は玄関先で男を見送った─
 男が明日の仕事を終えたあと電車で三時間半かけて向かう函館には、妻がいる。
 ときどき、神経質な男が持ち帰る洗濯物の枚数が合わないことに、彼の妻は気づかなかったのかどうか。あと二か月弱で再び函館勤務に戻る男とは、この日を最後にした。
──今日で、おしまいにしようか。
──うん、いいところだね。
 どちらが先に切り出してもおかしくないくらいの関係に落ち着いていたのだった。
 五十の男と四十五の女が、お互いの環境を飲み込んだ上での関係は、とうとう泥沼も見ずに終わった。一年という長さ、あるいは短さのラッピングを元に戻す。あっけなさを装う夜更け、何度かあった恋とも呼べない都合のいい関係の終わりは、いつだって普段の貌をしている。
 美弥子は玄関の鍵を閉めて、リビングに戻った。パネル型集中暖房の目盛りを下げる。寒さに弱い夏生まれの男は部屋の温度が下がると、美弥子が気づかぬうちに目盛りを上げたままにしておくのだった。それも今夜が最後だった。
 暖房の目盛りを下げて、仕事部屋にしているクローゼットに戻った。漫画家のアシスタントで収入を得ている今、美弥子の内側には心に思い描けるほどの将来はない。
 もうずいぶんと長いこと、漫画家が喜んでくれる背景を描いて暮らしてきた。丁寧に、一切の手を抜かず。いつの間にかそれが経済的な自立を得る作業になっている。
 漫画家が現地で撮ってきた写真は、橋の向こうに広がる港の景色だった。液晶タブレットに取り込んだ写真を加工して、指示どおり背景に不要なものを取り去り、写真ではなく「絵」として完成させる。
 漫画の背景だけにクオリティを要求してくることのないベテランの依頼は、全力で取り組めるのと、仕上がりゆく過程を楽しめるくらいに充実している。
 これで良かったのか─良かったはずだ。自分はここにいていいのか─いいに決まっている。漫画家からの、背景指示のメールを読み返してみる。
『今回は、水の質感を大事にしようと思ってます。二年間の連載も今回で無事最終回。ほんとお疲れさまでした。おかげさまで、夏の終わりには上下巻で売り出すことが出来ます。ミヤちゃんの水は職人芸。毎回編集者が驚愕(きょうがく)してましたよ。わたしも、本当にありがたかった。ラストまでもう少し、どうかよろしく頼みます』
 漫画家にデジタル環境を整えてもらったことで、どこにいても仕事は出来るようになった。もう、漫画家の自宅に泊まり込んで徹夜で作業をする時代ではないのだった。
 パソコン画面を見ていたそのときスポンと音を立てて一通、メールが入った。
「高城好子」
 ふっと横隔膜の位置が持ち上がるような、不思議な感覚になる。美弥子は三畳のクローゼットを照らすダウンライトを見上げた。首の付け根が少し痛い。
 高城好子─たかぎよしこという本名の、読み方を変えてひらがな表記にしただけで、別人になる。
 絵本作家、たかしろこうこ。
 十歳からの三年間、美弥子の三番目の母だった人だ。自分が父から生まれたわけではないと知ったのは、二番目の母がやってきたときだった。

プロフィール

桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に、『硝子の葦』『起終点(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』など。近刊に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』がある。