プラチナ・ビーズ

五條 瑛


  プロローグ

 それでもわたくしたちは、国家なしでは生きてはいけません。
 わたくしたちを生かすもの殺すのも、国家なのです。
        ――ソ連の強制収容所を脱出した女の調書より

 大地は、女を連想させる。
 なだらかで途切れることなく、どこまでも見えなくなるまで続いていく柔らかな曲線。輪郭こそ穏やかだが、その内に詰まっているどっしりと重そうな厚みのある身体は、女の肉体そのものだ。
 大地という肉の上に自慢げに並ぶいくつかの大きな膨らみのさらにその上には、何本もの鋭い尖塔が、遥か天上までも貫かんばかりに高くそびえている。その頂きは、見るたびに衣装を変え、顔を変える。触れようとすれば、身体の熱さまでも変えて、拒んでいるのかそれとも手招いているのかと問い質したくなるような曖昧さで人を誘う。誘いはいつも美しく、そして危険だ。
 たじろぎ、脅え、後ずさりしながらなんとかその誘惑を振り切ったとしても、終局はこの女から逃げることはできまい。ふと視線を逸らした先には、伏せた椀のようなぽってりとした丸い膨らみが待ち構えていたかのように、にこやかに微笑みかける。どこまでも白く見える大地だが、単色の絨毯の下には、緩やかな稜線を覆う黒緑色をした豊かな繁みがあり、その奥をまさぐれば、湿っぽいぬるぬるとした肥沃な赤い土が隠れているはずだ。その湿り気の中で、数え切れない生命が誕生し、そして朽ち果てる。
 見慣れているはずなのに、見飽きることのない肢体――。
 男は片方だけ分厚いグローブをはめた左手で、黒いゴーグルの中央を額に押し上げた。
 きらきらと乱反射する冬の陽射しが、思いのほか眩しい。反射的に目を細めたため、男の眉間には二本の深い皺が寄った。
 いきなり、半分の大きさにしぼられた虹彩には入りきらないのではないかと思えるほど、膨大な広がりの映像が視界に飛び込んできた。瞬間、男は足下から自分自身が砂でできた彫刻のように、さらさらと静に崩れてしまうのではないかと感じたが、それは決して不快な感覚ではなかった。心地よい軽い目眩に身をまかせ、こもままばったりと冷えた大地の上に倒れ込んだならどんなに気持ちがいいだろうとさえ思ったが、その考えはすぐに捨てた。
抱くことは叶わなくても、抱かれることはいつでもできる。いまはまだ、そのときではない。
 男は大地の誘惑に負けまいとするかのように、強引に目を見開いた。
 蒼い宙を光りの矢が飛び交っている。目の前には白一色の化粧を施した大地が広がり、無防備とも言えるほどのあけすけな姿で男を包み込んでいた。年に何度かの汚れなき晴れ姿を惜しげもなく陽光の下に晒し、横たわったまま、じっと男を見つめている。
 その姿は、まさに大らかで慈悲深く、同じくらいに罪も深そうな女そのものだ。よく知っているつもりでいても、実はなにも分かってはおらず、なにかの拍子に未知なる顔を覗かせては、きっと手ひどく人を裏切るのだろう。奥深く……どこまでも深く、入り込めば迷路のように抜けられず、それでいて暖かく湿っぽく、泣きたくなるほど懐かしい。
 優しく、ときに厳しく人間を包み込む母なる大地。生命の源、信仰の故郷、希望と絶望の住処……ここは、巣立ち旅立ったすべての肉体がいつかは還る場所なのだ。抗えるはずもない。ひどく煽情的だ。
 ようやく光りに慣れた男は、徐々に瞳を開きながら、目前の女をじっと見つめた。
 愛しい女――。だが、この女がもし、なにも産み出さない石女だとしたら……男は意地悪くそう考えた。人間はこうまで大地を讃え崇めまい。畏れもしないだろう。汚し犯し切り刻むことに、哀しみどころか痛みすら覚えまい。命を産み育ててこそ、この女には価値があるのだ。

 
 
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