わたくしだから改

大槻ケンヂ

   アホが漠然と人生を悩んでいる

 小、中、高と、自分の卒業文集を読み返してみたところ面白かった。
 昭和五十二年度中野区立北原小学校の卒業文集のタイトルは「どろんこ」。表紙は校章を中心に子供たちが遊んでいる絵で、描いたのは2組の「ウラッコ」こと占部君だ。彼は天才的に絵のうまい同級生だった。「きっと将来ウラッコはデザイナーにでもなるのだろうな。いいなー才能のあるやつは」と幼ごころにねたましく思っていたものだ。大人になって、筋肉少女帯のCDジャケット担当デザイナーとして彼が「久しぶり、オーケン!」と現れた時には本当にぶったまげた。ちなみに占部君、文集の「尊敬する人」欄にSF作家エドガー・ライス・バローズの名を挙げていて末恐ろしい小六もいたもんだ。オレはと言えば社会科見学に行ったことを「NHK放送センター」と実にベタベタなタイトルで記す、ごく普通の子供で、この頃はまだオレも世をすねちゃいなかったなと妙に泣けてくる。しかしだ。
「中には、放送の歩み、音のコーナーなど、どれも感心するような物ばかりであった。中でも楽しかったのは、自分の姿がテレビに映るコーナーだ。おっ、いい男が映っているなと思ったら、自分だった」
 なる一文があった。この文章の落とし方は今とまったく変わっていない。文章力の成長の無さに我がことながら恥じ入ってしまった。
 他の生徒の作文を読んでも、「入学式」だとか「劇童話クラブの思い出」「学芸会係になって」など、あくまで親や教師も読む公の場としての文章が多い。子供ながらに皆題材をわきまえている。
 ところが中学になるとこれが一変してしまうのだ。
 昭和五十五年度中野区立第四中学校の卒業文集作品は、分類すればいくつかのパターンにわかれている。一番多いパターンは「規範系」である。「三年間」「中学時代をふり返って」「出会いそしてわかれ」といった、小学時代を引きつぐ、どこに出しても問題のない規範的な作文である。
 これがどういうことなのか、二パターン目から文章はやにわに「変」になっていくのだ。「場ちがい系」とでも呼んだらよいか。何もこんなとこでそんなこと書かんでもいいじゃないか、と思わずつっ込みたくなるようなテーマをいくつも見つけることができるのだ。
 例として1組Iさんの作文を挙げたい。タイトルからこうくる。
「デカい女」
 デカいのだ。何が? 女が。
 一体何事かと思えばIさん、会う人会う人に身長の高いことを三年間言われ続けた、つらかった、とのこと。そして「高校に行ったら、私よりデカい人がいますように」という、ナパーム弾が暴発したかのごとき自分本位な神への祈りで作文をしめくくっているのだ。よっぽどつらかったのだろうが、何も卒業文集に書かんでもいいじゃないかそんなこと。
 デカい女、以外に、こんなタイトルもあった。
「由美子のたわごと」
 6組Hさんの作文だ。
「今度生まれてくるとしたら、私の家は湖のほとりの小さな小屋。……なーんて、こんなところに生まれてこれたらいいな」
 正真正銘のたわごとで驚いた。
 由美子に続いて5組のM君もすごいタイトルだ。
「生きるための切腹」

 
 
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