暴れ影法師 花の小十郎見参

花家圭太郎

   第一章 密  使

     一
「それは……ならぬ。あの者だけは、まずい」
 それまで樽のように胡坐して三人の意見に耳を傾けていた梅津半右衛門憲忠が、戸沢小十郎の名が出たとたん、ボソッと口をはさんだ。
 秋田佐竹藩・久保田城の御用部屋に、半右衛門以下四人の老職・重臣が額を寄せての密談は、すでに二刻(四時間)になろうとしていた。が、なかなか結論は出ない。
「本日はこれまでと致そう。ひと晩おけばよい智恵が出るかもしれぬでのう」
 半右衛門がやや疲労の色を浮かべて密議を打ち切った。
 事は、江戸在府の藩主・佐竹義宣が密使をもってもたらした一通の書状から始まった。
 そこには大御所(家康)の死去(元和二年〈一六一六〉)以来、幕府が一段と高飛車に転じつつあること、従って江戸においてはむろんだが、国表においても「方々遺漏なきよう力める」こと、この件については以後、「書状での遺り取りは罷りならぬ」ゆえ、予の手足となって江戸と国表をつなぐ「心利けたる者」を早急に任用すること……とあり、最後に「なお才、肚、腕の冴えたる者を選ぶべし」とあった。
 これだけなら半右衛門もそんなに思いわずらうことはなかったのだが、追いかけるようにもたらされた江戸留守居・信太兵部からの報せがそれを許さなかった。
 その報せによれば……将軍家(秀忠)とその側近が内々に外様数家の改易(取り潰し)を画策中……そのなかにわが佐竹も入っておるとのうわさあり……というものであった。半右衛門は即座に、このうわさが浮き草のような軽いものでないことを直感した。
 信太兵部は江戸を一手に預かる留守居である。そのもっとも大事な役目は、幕府の方針や動きをいち早く察知し、藩と藩主の対応を誤らせないことにある。そのためには常日頃から幕閣・旗本衆はもとより、諸大名とも誼を通じておかなければならない。兵部が時季、時季に国許から届く鮭の塩引や菱喰(雁)、熊の皮や銀などを如才なく付け届けてまわるのもそれがためである。
 が、これは兵部の表の顔にすぎない。裏にもう一つ別の顔がある。それは、江戸中に忍者を放って探索方はいうに及ばす、ときには謀事をも辞さぬという、まさに裏の顔である。だが、こうして両面から入手した消息によって、佐竹がこれまで無事を得てきたことも事実である。そのことは半右衛門が一番よく知っている。江戸と国許の違いはあっても、兵部と半右衛門は互いに連携をとりながらお家の安泰をはかってきたのだから。
 それだけに半右衛門も、このたびのうわさが単なる巷の風説などではなく、兵部が必死に探りあてた確度の高いうわさに違いないと直感したのである。事実、兵部はうわさの根拠についても事細かく記してあった。
 それによれば、幕府は家康亡きあとも徳川が磐石であることを示すためにも、また秀忠親政の勢威を示すためにも、そして関ケ原・大坂攻め(冬・夏の陣)の残滓を洗い落すためにも、諸大名の国替、改易を断行する心中であり、すでにその機は熟しつつある、という。それというのも、将軍家が越後・高田六十万石のわが舎弟・松平忠輝(家康の六男)を、まるで家康の死を待っていたかのようにその三月後には改易し、伊勢・朝熊に配流したことによって、諸大名に対して何の遠慮も要らなくなったからだというのである。
 なるほど、まずは一門を斬ってみせ、次に外様をバッサリ、というわけか……半右衛門は背筋の凍る思いを禁じ得なかった。
 さらに幕府はとりあえず西国の一、二家、東国の一、二家を取り潰す意向にて……西国では安芸の福島正則、肥後の加藤忠広、薩摩の島津家久、東国では米沢の上杉景勝、仙台の伊達政宗、久保田の佐竹義宣らがもっぱらのうわさ……というのだから、半右衛門は色を失った。
 とかく警戒されがちな伊達は別としても、島津、上杉、佐竹は関ケ原の折り、公然と家康に背を向けた大名であり、福島、加藤は豊臣恩顧の大名である。
 公儀はそれほどにわれらが目障りなのであろうか……暗澹たる思いにとらわれる半右衛門であった。
 徳川幕府と諸大名による治政を幕藩制(幕政と藩政)というが、それは後世の呼称にすぎない。しかもそれは家康(慶長)、秀忠(元和)、家光(寛永)と三代・五十年をかけて徐々にととのえられていったもので、はじめから安定したものではなかった。それは、この三代の間に改易された大名がおよそ百三十余家(大半が外様)にのぼることでも明らかである。つまり、江戸の立ち上がり期は治政が混乱し、大名家の取り潰しも日常茶飯事、それだけに各藩(この「藩」も江戸後期の呼称。当時は「国」)とも、吹き荒れる改易の嵐に怯え、徳川の意を迎えるに汲々としていたのである。

 
 
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