続 会津士魂 五
開牧に賭ける


早乙女貢


   斬  首

    一

 佐井村在住の赤羽平助ら七人が捕縛されたことは斗南藩内に衝撃を与えた。かれらが贋金作りで藩内の困窮者を救っていたことは、大方がうすうす知っていたことである。
 どこの藩でも幕未の財政難を救けるために藩札の増刷や、品位を落した金銀貨幣を贋造したりしている。明治新政府は、かれらの本藩である薩摩や長・土の贋金作りに見て見ぬふりをして、旧会津藩へ弾圧の手を延ばして来たのだ。
 権大参事の山川浩も、七人を逃がすことはできなかった。涙を呑んで断を下さねばならなかった。狡猾な東京の弾正台は斗南県の責任において処刑を強要したのである。
 断罪と処刑の時間がきわめて短いものとなったのは、斗南県から弘前県への合併の時期が追っていたからである。
 前にも少し述べたように、拝借金や救恤米で辛うじて露命をつないでいた斗南藩人士の独り立ちは誰の目にも困難であり、隣県との合併は必須であった。
 ただ、山川や少参事の広沢安任らが策したのは、南部盛岡県とではなく津軽への吸収による藩士の救済だった。八戸県の大参事、太田広城らと相談して、弘前・八戸・黒石・七戸と合併することにより、大県としての安定を得ることだったのである。
 この“弘前県”は館県を加えて、六県合併となり、今日の青森県の原型となるのだが、斗南藩士の贋金作りは、合併の前に処断しなければならなかったのである。
 東京からやって来た旧主松平容保父子の帰京が迫っている。
 もう一人の少参事である永岡久茂が囚人を見舞ったのは、せめてもの思いやりからだった。かれらの真情を知っているだけに、一言、言葉をかけてやりたかった。同じ刑死するにしても、自分たちへの理解者がいるというだけで、心の安らぎが、得られるに違いなかった。
「永岡どの、われらの覚悟はついています。ただ、最後のお願いがあります」
「わしでかなえられることならば、何としてでも力になる」
「殿様にせめて一目お別れができませぬか」
 佐藤雪之助や北見金蔵など、食いつきそうな顔だった。永岡は、
(できることならば……)
 と、思った。ができない相談だった。
「おぬしら、佐井の港でお迎えしたのではなかったか」
「はあ、あのときは、みんな感激しました」
「それならば、もはや諦めるしかない」
 そのときの喜びを今生の名残りとして、いさぎよくしろ、というのである。
「なりませぬか」
「わしの力では、何ともならぬ」
「山川様へお取次頂けませぬか」
「権大参事でも」
 両三日のうちに処刑される囚人たちが、最後の別離に拝顔したいなどと、容保に頼める道理ではなかった。
 たとえ容保が、それを聞き届けても、山川や永岡の立場では、否定するしかないのだ。
「それ見ろ、できねえことだべし、みんなもう、頼むことはねえ。立派に腹を切るだけだ」
 赤羽平助は、乾いた声で笑った。自嘲の笑いだった。
(いまさら、殿の顔を見てどうするというのだ。もういい)
 佐井の港で出迎えたとき、容保は微笑で応えてくれた。久しぶりに見る殿様の容貌は少し肥えたようであり、血色もよかった。かつて京都では半病人のからだで、難しい立場を乗り越えて来たひとである。永い幽囚の生活も、むしろ、重荷がとれて、健康になったのかもしれなかった。
「永岡どの、礼を言います。こんなところに来て下さっただけでも、わたしどもは感謝しなければならないのだ」
 と、長岡信治が凝っと眼を見つめていった。
「みんな、やらねばならないことをやった。わたしどもが死ぬことで、斗南藩が安泰になれば、死に甲斐があるというものです」
「わしも、このままでは居ない。冥途から見守っていてくれ、おぬしらの志を無にするようなことはせぬ」
「頼みます」
 と、森金甚太郎がぽつりといった。
「あなたが命令して下されば、五、六百人まとまって、東京へ強訴もできると思ったりしたが、それも夢だ。頼みはすよ、わたしたちの死が犬死ににならなければ、それでいいのだ」
 永岡はただ、黙って頷いた。それ以上は、顔を見ていられなかった。
「しっかりやってくれ、介錯には、腕利きを選ぶつもりだ」
 それがせめてもの餞だったのである。
 七人逮捕したが、調べの結果、斬罪は六人ということに決った。日下幸八は直接、贋金作りに加わったのではなく、運び屋になっていたという理由で、死一等を減じられ流罪十年ということになった。
 永岡久茂がいった介錯人の選択は、衆目の見るところ、藩中第一の据物斬りの達人で四十一歳の星隆左衛門と決った。

 
 
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