どすこい。

京極夏彦

   四十七人の力士



 地響きがする――と思って戴きたい。
 地響きといっても地殻変動の類のそれではない。
 一定の間隔をおいてずん、ずんと肚に響く。所謂これは跫なのである。
 たかが跫で地響きとは大袈裟なことを――と、お考えの向きもあるやもしれぬが、これは決して誇張した表現ではない。振動は、例えば戸棚の中の瀬戸物をかたかたと揺らし、建付けの悪い襖をぎしぎしと軋ませ、障子紙をびんびんと震わす程の勢いであった。
 子の刻である。
 折からの雪が、しんしんと江戸の町に降り積もっている。
 つまり冬場の深夜である。だから殆どの者は眠っていた。
 当然音はなく、その所為か余計にそれは遠くまで響いた。
 耳を澄ますと、その重低音の振動に合わせて、ふん、ふんという荒い息遣いらしきものも聞こえる。どことなく家畜の鼻息にも似ている。音だけで判断するに、生臭き印象を抱きがちだが、それは単に音質の類似によって記憶の嗅覚が喚起されただけである。
 宇兵衛はしかし、幼い頃に嗅いだ牛の熱い吐息を夢現のうちに想起していた。
 牛が、巨大な牛が表通りを過ぎて往く。
 牛歩というくらいだから速度もあんなものだろう。
 しかし、それにしてはやけにでかい。
 多分小山程もある牛が――。
 ――牛ではねえな。
 ここは曲がりなりにも生き馬の目を抜く江戸、しかも本所だ。
 肥の香を漂わせた牛馬が通りを練り歩く訳もない。だいいち、小山程もある牛など存在する訳がないではないか――。
 宇兵衛は漸く覚醒した。
 ――もののけか。
 足洗い屋敷の大男でも歩き出したか。
 宇兵衛は眼を開けた。やはり音はする。
 暗がりに眼が慣れて、宇兵衛はまず目前に朦朧と浮かぶ老妻の萎びた寝姿に一度落胆した。続いてその萎びた婆ァが、地響きに合わせて痙攣するが如く定期的に小さく飛び上がる様を確認した。まるで水揚げした瀕死の鯉である。しかも萎びている。
 宇兵衛は思わず吹き出しそうになり、一方でそれが夢などではないことを確信して――。
 戦慄した。
 宇兵衛はそっと床を抜けた。
 雨戸の隙間を覗く。
 それは牛などではなく――。
 力士の群れだった。

 
 
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