プリズムの夏


関口 尚

   1

 港からフェリーが出ていくのが見える。それを眺めながら自転車をこいだ。太平洋を一望できるゆるやかな上り坂だ。
 まだ六月だというのにひどく暑い。制服のシャツがびしょびしょに濡れるほどに汗をかいた。やっと坂の頂点に立つ。ここからはニキロ先まで下りが続いている。
 ぼくは一つ伸びをしてからペダルを踏み出した。車がこない間は国道のアスファルトの真ん中を走る。直滑降だ。追い越し車線の上を走った。一定の長さで引かれた白線の上を行くのだ。それは途切れ途切れに置かれた平均台の上を走る気分だった。潮風を切りながら自転車は走った。逃げ水を追いかけていく。今日の物理の時間、摩擦係数の記号の読み方がわからなくてクラス全員から笑われた。先生がいちばん笑っていた。いまぼくはそのくやしさを捨てながら走っている。
 ぼくは水戸市のまあまあのレベルの高校に通っている。大学や短大の進学率もそこそこなのだ。しかし、水戸市では男子校の一高と女子校の二高がずば抜けた進学校のために、うちの高校はまさに普通の高校という評価に落ち着いていた。誇れるのは男女共学という一点だけだった。
 ぼくは大洗町の今井の家に向かっている。今井は隣のクラスの友人だ。今井は今日も学校をサボった。昨日の電話ではちゃんと学校に行くと笑っていたのに、体育の時間にあいつがいないことに気がついた。体育の時間は今井のクラスと合同授業になるため、あいつがいないとわかるのだ。別に学校を休むのにぼくの許可がいるわけではない。規約があるわけでもない。けれども黙って休まれると騙されたような気がした。
 今井の家は町の中心から南に下った海沿いにあった。海から一キロも離れていない、潮の香りのする郵便局の近くにあいつの家はある。おととしに建て替えられたばかりの二階建ての一軒家で、まだ柱の木目もみずみずしい。
「こんにちは」
 ぼくは裏手から声をかけて勝手口のドアを開けた。いつものことなのだ。家に上がると、キッチンのテーブルの上に新聞の折り込み求人広告が何枚も広げてあった。
 母親がパート先を変えたがっていると聞いた。今井の家庭の内情は芳しくなかった。はっきりと今井から聞いたわけではない。あいつは相談めいたことはしない。自分を悲劇の主人公にすることをなによりも嫌う。ただあいつの愚痴を集めて話をつなげてみるとこうなる。父親はリストラされてノイローゼになったらしい。そして父親の不可解な行動につき合わされているという。実を言えばぼくはまだ今井の父親に会ったことはない。父親は、日中は職探しか交通整理のアルバイトのためにいなかった。
 今井は学校をよくサボった。それも簡単に。留年はしないようにちゃんと欠席日数を勘定しているようだったが、三年生のぼくらは大学受験を控えている。もしどうしても休まなくてはいけなくなったら卒業できなくなってしまう。
 二階へと階段を上がり、今井の部屋のドアを開けた。網戸まで開け放しになった部屋の窓から海が見えた。幼児が魚の絵を描くときにその体を染めるために使う群青。海はそんな色をしていた。一瞬、部屋にこもった熱気が押し寄せてきた。しかし、すぐに窓から入る海風がやさしくぼくの体をなでた。今井は上半身裸でベッドに横たわって眠っていた。
 机の上にある今井のパソコンは省電力機能が働いて、ディスプレイの電源が落ちて真っ暗だった。しかし、パソコンのスピーカーからかすかにピアノの音が聞こえてきていた。映画『ピアノ・レッスン』の曲だ。どうやら今井は自分のホームページの更新をしていて眠ってしまったらしい。今井は映画の感想を述べるサイトを運営していた。簡潔だが的を射た映画批評で評判が高く、訪問客が多い。ぼくもその常連のひとりだ。机の上には二、三冊の映画雑誌が無造作に開かれたままになっている。今井が今日学校をサボった理由は自分のサイトの更新だったのかもしれない。
 しょうがないな、とベッドの今井を見下ろした。灼けた頬に伸びすぎた黒い髪がさらさらと揺れていた。一生ひげが生えないのではと思うほどつるりとした肌だった。唇は小さい。あごが美しい。この点はとてもうらやましかった。窓から差し込む午後の陽光で、まぶたがシャドウを薄く塗ったように輝いていた。女の子にもてるはずなんだがな。沈黙しているときの今井の顔はかなり美男子路線だった。しかし、この容物に魂が入ると同級生に敬遠される存在となる。
「なあ植野。目をつぶっている人間はいきなり目を開けちゃいけない、という法律が世界中にできないかな」

 
 
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