-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

面接〈インタビュー〉

 我に返ると公園のベンチにいた。緑の絵の具をずっと先まで拡(ひろ)げたような鮮やかな芝生と、その上に絵筆を濯(すす)いだ残り水にも似た濁った空がのしかかっていた。
 背後から子供と母親のはしゃぐ声が、きちがいじみて聞こえていた。
『ダイジョブ?』
 不意に声を掛けられノマは、びくりと身震いする。男とも女ともつかない皺(しわ)だらけで薄汚れた年寄りが彼女を覗(のぞ)き込んでいた。何と返事すべきか探していると老人は深く頷(うなず)き、笑みを浮かべ、立ち去った。かつては虹色だったらしい襤褸(ぼろ)を何枚も重ね着していた。まるで何処(どこ)かの芝居小屋から、わざわざ抜け出して来たようで服とも云(い)い難い袋状のものは老人が歩む度、わさわさ揺れた。
 左に公園の駐車場。今では珍しいボックス型の公衆電話があり、誰かが使っていた。
 指先に軽い痛みを感じた。何本かの爪が割れていた。また無意識に自分で噛(か)んでいたのだろうか。出血しているのか赤黒く指先が汚れていた。
 二百九十八万七千八百六十三円─これが去年、彼女に支払われるはずであり、支払われるはずもない未払いの給料。二百六十四─これが今迄(いままで)に紹介された、もしくは申し込んだ就職先の数。
 〇─今この場での勤め先。
 飲食店を二軒とビル清掃を掛け持ちして働いていた。突然、倒産したのだと教えてくれたのは、いつものように出勤した入口のドアに貼られたチラシ大の紙切れだった。
 やっと連絡がついた債権担当だという弁護士は電話越しで『あんたのケーキは、みんながシャブリ尽くしまくった後になるから、とっとと別の働き口を探した方が良いね』と云う意味のことを法律用語を使って投げつけるように説明し、尚(なお)も助けを求めようとすると『あれ? もしもし? もしもし?』と切って捨てた。ネットで探し、やっと辿(たど)り着いたNPOも、約束はするけれども早急な生活の立て直しには何の役にも立ちそうになかった。
 公衆電話から自分と同じ歳(とし)格好の女が出て行く。颯爽(さっそう)と歩く彼女はきっと普通のまともな暮らしをしているのだろう。アパートの支払いもある。五歳になる息子のコウの事もある。どうすればいいのだろう……。老人が去った先に背の高いビルが並んでいた。そのひとつに巨大な看板があった。煙草(たばこ)の宣伝なのか空から海を撮った写真があり、その青い海の上に小さなボートが浮かび、中に黄色地にハイビスカスのような赤い花を散らしたアロハ姿の男が心地よさげに寝転がっていた─〈何ものも逆らえない時間〉とコピーがある。
 何かが鳴っていた。ノマが振り返ると公衆電話からそれは聞こえた。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。