-短編ホテル-「グレート・ナンバーズ」

グレート・ナンバーズ

真藤順丈Junjou Shindou

 嵌め殺しの窓の外には、天鵞絨(ビロード)を貼ったような夜空があった。眼下の大通りには車のヘッドライトとテールライト、遠くの橋が真珠をつないだように輝いている。夜の腸(はらわた)を貫くようなタワーホテルの内部から見下ろすと、交錯する線と網目模様が見える。輝く糸が結びついて都市の設計図を、世界の織りなす深遠なパターンを描いている。たいていの人々はそこで地を這(は)うように暮らしている。
「村藤さま、ご要望に添えず申し訳ございません」
 謝罪しながら景山は声に出さずに言う。お客さまの要望にノーと言わないのがコンシェルジュであるにもかかわらず、お客さまの過ごしやすさに貢献できず申し訳ございません。この部屋でお客さまの要望がことごとく叶(かな)えられないのは、実のところ私がそのように差配したからです。シャワーの水圧はもっと上げられるし、デラ・ミネルヴァやアゴナールやフラミニオといったバルコニーに出られるスイートにご案内することもできました。室内が乾燥しているわけは、換気孔からひそかに除湿をつづけているからです。すべては村藤さまが、こうしてコンシェルジュを呼びだす条件を整えるためです。お客さまは今夜、肉体と時間から解き放たれます。お客さまの魂はこれから昇天とも墜落とも呼べる状態に移行して、私たち人間存在の内なる蒼穹(そうきゅう)で火を燃やしつくす星となるのです。こうしてその瞬間に立ち会い、お客さまの旅立ちを見送ることができますのは私にとっても幸甚(こうじん)でございます。
「あんた、さっきから何か、ぶつぶつ言ってないか……」
 おや、声に出ていましたか? 無粋なことで申し訳ございません。景山は腕時計を見る。村藤の顔が弛緩(しかん)して、瞼が震えて溶けだしている。何かが変だ、とそろそろ察したかもしれないが、察したところでどうにもならない。予定どおり、食事やワインに混ぜた睡眠導入剤が効いて、立っていられないほどの眠気をもたらしている。あごを打たれたように床に沈みこむ客に、景山はもう介添えの手は貸さない。嗜眠(しみん)にいざなうような微(かす)かな声でささやき、レセプション向けではない種類の笑みを弾(はじ)けさせる。
 すでに景山の指先には、細い針を突出させた超小型の注射器が隠し持たれている。
 眠りこけた村藤に、致死性の毒物を、静脈注射する。
 あとで体内から検出されない毒物はいくらでもあって、たとえば塩化カリウムは神経伝達を阻害して心臓発作のように見せかける。あまり知られていないが、たくさんの人間が出入りするホテルにはけっこう変死体がつきもので、騒がれずに処理する手段も心得ている。村藤は不運だった。しかし身におぼえがないわけではないのかな? プロフェッショナルだけどあまりに剣吞(けんのん)すぎるコンシェルジュに引導を渡されて、摩天楼(まてんろう)の高みで朝の二度と訪れない眠りについていた。剣吞、剣吞!
「ご心配なさらず、もう一人も、すぐに送りだします」
 この男で三人目だった。景山はひそかに独りごちる。
 残っているのはあと一人です。

プロフィール

真藤順丈(しんどう・じゅんじょう) 1977年東京都生まれ。2008年『地図男』で、第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。18年から19年にかけて『宝島』で第9回山田風太郎賞、第160回直木三十五賞、第5回沖縄書店大賞を受賞。著書に『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』『しるしなきもの』『黄昏旅団』『夜の淵をひと廻り』『われらの世紀 真藤順丈作品集』など。