バルセロナ、1957年。クリスマスに近いある日、「センペーレと息子書店」で、ダニエルがひとりで店番をしていると、不吉な風貌の客が入ってきた。猛禽の目つきをした老人で、片足をひきずり、着ている服もよれよれだ。男は『モンテ・クリスト伯』の稀少な版を買い、ある人にプレゼントしたいと言う。「どなたにお届けしましょうか」と尋ねるダニエルに、相手は自分で書きこんだメッセージを見せた。
《死者のなかからよみがえり、未来の鍵をもつフェルミン・ロメロ・デ・トーレスへ》
 不吉な客は、100ペセタ札を一枚おいて、去っていった。
 男とフェルミンは、いったい、どんな関係があるのか……?

 本書『天国の囚人』(原題 El Prisionero del Cielo)は、『風の影』と『天使のゲーム』の続編で、「忘れられた本の墓場」の四部作をつなぐ、まさに〝要〟となる作品だ。
 舞台は『風の影』の2年後にあたる1957年の「センペーレと息子書店」、物語はその〝現在〟と、フェルミンの回想に描かれる内戦直後の〝過去〟を往復する。
 ダニエルとフェルミンを中心にした第一作目の作中人物にくわえ、フェルミンが、かつてモンジュイックの監獄でかかわった――それゆえ、現在の彼らに影響する――新たな人物たちが登場し、約20年の時をはさんでストーリーが紡がれていく。その物語の核に位置するのが、ダニエルの亡き母であり、『天使のゲーム』の手稿という構成だ。彼女の死をめぐる経緯と、『天使のゲーム』という作品が、本書にちりばめられた数々の謎の中心にあって、おそらくシリーズ4作目に答えがひきつがれることになる。

 作中でも述べられるとおり、タイトルの「天国」は監獄を指し、「囚人」は前作の主人公ダビッド・マルティン。その作家のマルティンを拘束する監獄の長、マウリシオ・バルスが〝天〟の象徴であり、当時の独裁体制をも暗示して見える。本書では、この人物の存在が、過去においても、現在においても、各所で暗い影を落としていく。
 バルスが「忘れられた本の墓場」に興味をもつ理由はなにか? 彼は、なぜダニエルに近づこうとしているのか? ダビッド・マルティンの行方は? サフォンが得意とする入れ子の人形式の巧妙な小説手法で、ひとつの謎がまた別の謎をよび、気がつくと、私たち読者は『風の影』、『天使のゲーム』、そして本書『天国の囚人』という、「忘れられた本の墓場」をめぐる壮大なサフォン・ワールドのどこかに置き去りにされている。
 真っ先に読者を捉えるのは、冒頭に出てくるフリアン・カラックス(『風の影』の作家)の文章だ。これを見るかぎり、『天国の囚人』はカラックスが書き、リュミエール出版――『天使のゲーム』に登場する謎の出版社――から後年本を出したと受けとれるが、とすると、フリアン・カラックスと、リュミエール出版の関係は?
 ジグソーパズルのピースのように、バラバラのまま残されたいくつもの問いが、エピローグ最後のダニエルの言葉とともに、シリーズ完結編の4作目へと運ばれるのだろう。

 『風の影』で純朴な少年だったダニエルは成長し、若い一児の父親になった。バルスという男への復讐心に純粋さを剥ぎとられるいっぽうで、ダビッド・マルティンにたいする複雑な思いも募っていく。あらゆる意味で大人への階段をのぼりはじめたダニエルを、こんども見守るのがフェルミンだ。暗い過去をひきずりながらも、極上のユーモア感覚を失わない彼に、読者は、このたびも泣き笑いさせられる。ベルナルダとの結婚をまえにしたフェルミンの深い悩み、娼婦ロシイートとの過去など、「センペーレと息子書店」をめぐる人物たちの様々なエピソードにも事欠かず、こうした逸話が甘い切なさをもって、随所に挿入されている。フェルミンの結婚式前夜のパーティーで、はじめて酒に酔ったダニエルの父センペーレが、夜の書店前でぽつんとすわって待つ人物を見たときのシーンは絶妙だ。この人物が今後どんな役柄を演じるのか、話の行方が楽しみでもある。
『天使のゲーム』の読者にとっても、本書は宝探しに似た面白さが隠されている。ダビッド・マルティンとイサベッラはもとより、記憶に新しい人物や場面に、意外なところで遭遇するはずだ。マルティンが大事にする1枚の写真、独房での対話の相手、ピレネー山麓プッチサルダーの湖と療養所、またマルティンを法廷で吊るしあげる老富豪や、筆耕屋のオスワルドを食いものにしたという阿漕な二人組の編集者の姿も、前作からよみがえる。

 小説の背景となる時代は大きくふたつ、内戦(1936‐1939)直後と、作中の「現在」にあたる1050年代で、いずれも、スペインの歴史の特異な様相が作品に生きている。
 フェルミンの回想に登場するのは、当時のスペインを生きた無名の人びと、あの時代に確かに存在した人間たちの投影だ。戦争は勝者と敗者を分断し、敗者は〝政治犯〟の廉で次々投獄された。手元の資料によれば、内戦前スペイン全土で1万人程度だった囚人数が、内戦の終わる1939年には27万人にのぼったという。作中のサルガドに代表される過激な組合員や労働者はもちろん、サナウハのような医師や、教師、作家もいた。フェルミンの監獄仲間は、ある意味で〝普通の人びと〟だったのだ。
 フェルミンが語るとおり、外の世界の人間たちは、おそらく沈黙することで時代を生きのびた。独自のアイデンティティーを誇るカタルーニャは、独裁政権下で政治的にも文化的にも厳しい弾圧の憂き目を見たが、そのなかにも庶民たちのささやかな日常があった。作中の「現在」では、人びとの淡い希望をのせたクリスマスの風景が、鮮やかに、時にユーモラスに描かれている。〝カタルーニャ帽〟をかぶった幼子キリストが出現する場面もそのひとつ(本書283ページ)。わずか十行弱の、一見なにげない描写だが、公の場でカタルーニャ語の使用も、民俗的表徴物も禁じられた当世バルセロナの社会事情と、抑圧されるカタルーニャの人びとの思いが、絶妙なユーモア感覚をもって凝縮されている。
 また1950年代は、フランコ政権がサッカーを国家的スポーツとして大々的に推進した時期。庶民のサッカー熱が、国家政策に沿う〝時代の姿〟だったわけで、そう見れば、作中、フェルミンと親しい教区教会の司祭が〝バルサ〟の会員というくだりも、なるほど合点がいく。フェルミンが示唆するクバラ選手は、共産圏ハンガリーから亡命したスター的存在で、政権側にとっても反共宣伝の好材料になったようだ。

 19世紀文学へのオマージュを常に作品にこめるサフォンらしく、本書でも、それが明らかな形であらわれる。第一部はディケンズの『クリスマス・キャロル』(スペイン語版のタイトルは”Un cuento de Navidad”)に題名をかり、十九世紀のロンドンならぬ、1950年代バルセロナのクリスマスの風物詩で彩られる。また、フェルミンの脱獄のくだりは『モンテ・クリスト伯』、彼をひと晩かくまう神父は、『レ・ミゼラブル』でジャン・バルジャンに銀の燭台をもたせる司教の姿に重なり、ページのむこうから、デュマやユゴーの鼓動がきこえてくるようだ。

 2011年にスペイン語原書が上梓されたとき、作家自身が「前作(『天使のゲーム』)よりも〝光〟のある小説」とコメントしていた。第五部の終わりに、過去の闇をくぐりぬけたかのような、ひと足早い春の光明を感じるのは、たぶん訳者だけではないだろう。
「忘れられた本の墓場」をめぐる物語は、『天国の囚人』をもって、中心にむかって収斂しはじめた。完結しつつある壮大な小説世界の主人公たちに、はたして、どんな未来が待ちかまえているのか? 4作目が待ちどおしい。

 カルロス・ルイス・サフォンの小説には、映像があり、音があり、においがある。地中海の潮風と、光と影にかこまれた遠い風景、時にセピア色、時に色彩あふれるバルセロナの都で、作中人物たちが動き、会話し、思索する。『風の影』の世界的ヒット以来、さんざん映画化の誘いがありながら、作者が決して首を縦にふらないのは、サフォン自身が〝言葉のもつ魔力〟を信じているからだろう。「読者が頭のなかの劇場で見るものが、最高の映画だ」と彼は言う。サフォンの作品を読みながら、私たちの脳裡に映しだされるシーン、心の小宇宙に創られていくイメージは、たしかに、世界にひとつしかない。

――「天国の囚人」の中で、もっともご自身が投影されているのはどのキャラクターですか?

書き手というのは、創作する多くのキャラクターに自分自身を分割して投影する傾向があると考えている。彼らは読者のもので、多かれ少なかれあなたたちに似ているところがあるはずだ。大方「忘れられた本の墓場」シリーズで、いちばん私に似ていると感じるのは、「天国の囚人」の場合、実はこの物語にほぼ出てこないフリアン・カラックス――この作品は彼の「風の影」の言葉で始まる――あの無名の作家だよ。「天国の囚人」の中心人物、フェルミンも私にとても似ている。彼は私の思考の一部がキャラクターとしてページ上に解き放たれたものだからね。ダニエルにもまたいくらかの私の部分が入っているし、気の毒なマルティンにも同じことが言えるだろう。だけど申し訳ないが、他のキャラクターよりもやはりカラックスに対して親近感を覚えるよ。

――実際のところ、「天国の囚人」はどのように、お書きになったんでしょう?
その理由も教えてください。

全てロサンゼルスの仕事場のパソコンで書いたよ。机でじっとしているか、せめて机のそばにいるかしているよう、自分と闘いながらね。よく部屋の中を歩き回るんだ。ひとりごとを言ったり、ケージの中の猫のように歩き回ったり、ピアノをひいたり、原稿を書かない言い訳を考えたり……ほら、よく聞くことだろ。書くことというのは本質的に、死ぬまで書き直しの繰り返しで、私はほとんどの時間を仕事場で過ごしているよ。言葉が読者の心の中に絵を描いてくれるよう励んで、たいていはその自分の努力の結果のお粗末さに嘆くためにね。ほとんどの書き手がそうだと思うけど。

――冬はあなたにとって、“影と灰”ですか?
そんな父も、影と灰の長い冬をまたひとつ航海しながら、灰色の人波をくぐり行くひとりにすぎなかった。(本文14P)

場所によるかな。カリフォルニアにいるときは、うんと日差しがあって、さえるような青い空だ。だけど私にとって冬はむしろ魂の状態のことで、真夏の最中にも時折冬がやってくるし、実際の季節にかかわらず人を追いかけてくるものなんだ。バルセロナにいるときは、どういうわけか冬はより冬らしくなるように感じる。いずれにせよ、忙しくすることで不幸という冬やシェイクスピア風の気候からに陥らないようにしているよ。いつもうまくいくわけではないけど。私に関して言えば、“秋”のような男だと思うよ。

――小説を書いている間は、静寂の中で執筆されるのですか、それとも何か音楽を聴いていますか? 何か聴く場合、誰の曲をかけていますか?

静寂と音楽、両方だ。それは日にもよるし、取り掛かっている小説の場面にもよる。音楽の弊害は、私が音楽を愛するあまり仕事をストップして、バスの旋律や全体の雰囲気、オーケストレーションについて考えはじめてしまうことだ。音楽は全て好きだけど、一番好きなのはクラシックとジャズかな。時々、そのとき取り掛かっている本のキャラクターやストーリー、世界観をイメージした、自分で作った取るに足らないような小曲を聴くこともあるよ。この曲は自分の頭の中で描いている映像の映画音楽のようになって思い浮かぶもので、物語のムードや雰囲気、ひらめきを得るヒントになっているんだ。

――フェルミンのセリフ“傷跡はぜったい消えない。でしょ?”ですが、
これはあなたの体験に基づくものですか?
「傷痕はぜったい消えない。でしょ?」
「消えたと思うとやってくる、そう思うよ……」(本文78P)

いや、大きくひきずるような経験はないよ。

――好きな作家とその理由をおしえてください。

このインタビュー、どのくらい時間とスペースがあるんだ? 故人から現存する作家まで、すばらしい作家はたくさんいると思う。偉大なるチャールズ・ディケンズから、今もなお精力的に活動をつづけるジョイス・キャロル・オーツまで。そのほかにも、もっと。私はこういうリストを作るのは下手なんだ。少なくとも50人は挙げさせてもらわないと、私がいちばんに栄え敬う作家らに対して申し訳ないことになってしまうよ。

――フェルミンが言った、次のセリフは本当ですか?
「年寄りになるっていうのは、そういうことでしょ」とフェルミンが言った。「ああいうのだって昔は鼻持ちならん連中だったってことを、他人さまは忘れてるんですわ」(本文260P)

私は、フェルミンはいつもながら、正しいと思っている。歳をとるということは誰にとっても残酷で屈辱的なことだろう。だけど同時に、人間をよりかよわく、恐ろしくないものにもしてしまうようだ。彼らが本来はどんな人物であったか、彼らが衰えた姿をしていなかった頃はどんなことをしたのか、私たちは忘れてしまう。でも、これでいいんだろうね。なぜなら私たちは彼らの善し悪しを決める立場にないし、人生はその終わりなき残酷性の中にでも、自分たちが人に与えた傷を償う道を探りだせるようになっているものなのだから。

――あなたの意外な面を1つ挙げるとしたら、何ですか?

私の愛らしさかな? 本当に、みんな大驚きだよ! 出会って私が「こんにちは」と言うまでには、君は私を君のお母さんに紹介したいと思うだろうね(笑)。

――運命の出会いはやってくると思いますか?

ほとんどないね。最近は、運命ってのは電話やEメールの返事もしてくれない。そういった運命の出会いはたぶんフェイスブックやツイッターにとって変わられてしまっていて、“運命”だと判断することができなければ、そのことに長く注意を払うこともできなくなってしまったんだと思う。

――あなたのいちばん鮮明な記憶はなんですか?

たくさんあるよ。私は映像として鮮明に記憶できるんだ。脳内に小さなHDカメラを持っているような感じで、頭の中に物事を記録し、詳細まで完璧に再生する。小さい映画のようなものだね。必ずしも良いことではないのだが、生まれつきの能力だからね。止めることはできないんだ。

――「忘れられた本の墓場」シリーズは、なぜあの時代なのでしょうか?

産業革命から20世紀中ごろまでの間の時代には魅了されるものがある。思うに、かなりドラマや悲劇、複雑性に満ちた時代で、すばらしく肥沃な創作の舞台を作家に与えてくれるんだ。だから私も、つい繰り返しその場面を小説に使用してしまう。

――次回の作品について、何か手がかりやヒントはありませんか?

「忘れられた本の墓場」四部作の第4作目、最終章はいわばグランドフィナーレだ。4つの物語の迷宮は再び編成し直され、全てがさらなる新たな視点をもって現われる。そのときこそ、このシリーズの全体像や1つ1つの物語のエッセンスや、それぞれの真髄が見えてくるはずだ。たとえ「天国の囚人」を最後まで読んだ読者が、いまならこのチェス・ゲームの意図がわかっていると思っていたとしても、本当はわかっていないのさ。
ビッグサプライズはこれからだよ…