45th 集英社文庫

あの人の集英社文庫

『蜘蛛女のキス』

敗北を裏返す語りの力

津村記久子

Ⓒ講談社

 本書はだいたいいつも取り出しやすいところに置いてある。思い出した時に、付箋を貼っている箇所を拾い読みして、にやっとしたのち元の場所に戻す。長編小説なんだけれども、短編集の中の好きな短編を読んだり、画集の中の好きな絵を見たりするような感覚で手に取る。それでちょっとだけ読んで楽しい気持ちになる。長編小説をそんなふうに後々拾い読みすることは、自分としてはとても珍しい。
 どこに付箋を貼っているのか。読まれた方ならなんとなくおわかりになるかもしれないが、モリーナがバレンティンに映画の話を始めるところだ。実際に存在する映画と、プイグが創作したものと思われる映画を取り交ぜて六本。あと、モリーナが刑務所の所長に頼むお買い物リストと、食事の場面。これだけ書くと、楽しい雑誌みたいですよね。あと映画とおいしい食事を紹介するポータルサイトみたいな。実際、はんなりしたゲイのモリーナが、ゴリゴリの活動家の政治犯バレンティンに示し続けていたのは、表面的には雑誌みたいな楽しい生活、ちょっと感情的に言い換えると、生きている喜びみたいなものだったのかもしれない。
 いや、本書は「映画とおいしい食事」だけを期待して読むと間違いなくダメージを食らう内容だし、とても政治的だし、ゲイであることの真面目な考察にも富んでいる。それでも楽しさは厳然と存在している。それはまるで、わたしたちの生活の楽しさの中には政治があり、政治とは無縁ではない場所に生活の楽しさもまたあるということを示唆するようでもある。
 わたしは、本書を読んだ人にぜひ、「この本の中に出てくる六本の映画の中でどれがいちばん好きですか?」ということをおたずねしたいと思っていて、今までに一人だけ答えてくれた人は、二番目にモリーナが語る、愛する男性のためにレジスタンスを裏切る悲劇のヒロインが登場するナチスの宣伝映画の話が好きだと言っていた。「やっぱりあれかなー」というニュアンスでその人は言っていたので、人気がある話なのかもしれない。わたしは四番目のカーレーサーの話が好きだ。なんだか、土曜日に朝から晩まで映画館をはしごした帰りに、「どれが好きだった?」と話しているような軽い感覚もあるのだけれども、どちらも強烈に政治的な内容の映画だ。パリの女優がドイツ人将校と恋に落ちてレジスタンスを裏切る二番目の映画ははっきりと「ナチスの宣伝映画」だし、カーレーサーの話も、レーサーの青年とヨーロッパの成熟した美女とのぬるいロマンスの話と見せかけつつ、青年はラテンアメリカの植民地主義の歪(ゆが)みを一身に引き受けて死んでいく。わたしはカーレーサーの映画が本当に観たくて、いろいろ検索してみたのだけれども、どうもこの話はプイグの創作らしい(Wikipedia調べですが)。残念だ。
 でもどの映画の話もいい。言及される実在する映画も観たことがないくせに言うけれども、いい。モリーナならば、どんなものでもおもしろく説明してくれるんじゃないかと思う。まったく興味のないテレビの二十一時の恋愛ドラマのあらすじであっても、郊外の駅前の新築マンションのチラシであっても。わたしはつくづく、モリーナの映画の話を通して、語ることの力を思い知る。宣伝に利用するためだけに生まれた、言い訳ばかりの陳腐な悲劇のロマンスが、忘れられない物語に昇華される。モリーナとバレンティンの物語はまったく陳腐ではないけれども、たった二人の囚人の間でだけ交わされたとされる会話がこの素晴らしい小説に異化されるという意味では、小説自体がモリーナが語る映画のあらすじと同じ構造を持っているように思える。
 だから〈蜘蛛女のキス〉という小説は、自分にとって、もっとも力強くフィクションの力を明示してくれる小説でもある。フィクションにおける主題として、孤独が力を持つのはなぜか。苦しみが力を持つのはなぜか。現実でその状態に置かれている者は敗者と見なされることが多いのにもかかわらず。モリーナとバレンティンの物語もまた、政治の暴力的な力に呑(の)み込まれるようにして終わる。それを読んでいるわたしたちもまた、小さいかもしれないがおそらくは間断なく負け続けている。しかし本書は、「語られた」ということでその負けの意味を転倒させ、価値を与える。わたしたちが本書に心を動かされることは、敗北は無価値ではないことを意味する。本書が示すのは、誰かが負ける物語の、物語そのものの力の勝利なのだと思う。

Ⓒ講談社

■津村記久子氏プロフィール
1978年1月23日大阪府生まれ。小説家。大谷大学文学部国際文化学科卒業。会社勤め→失業→会社勤めを経て、2005年『マンイーター』(改題『君は永遠にそいつらより若い』)で太宰賞、08年『ミュージック・ブレス・ユー!』で野間文芸新人賞、09年『ポトスライムの舟』で芥川賞、11年『ワーカーズ・ダイジェスト』で尾田作之助賞、13年「給水塔と亀」で川端康成賞、16年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。他の著書に『つまらない住宅地のすべての家』『現代生活独習ノート』など。

蜘蛛女のキスEl Beso De La Mujer Araña

マヌエル・プイグ野谷文昭【訳】

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