解説──柳広司の知恵/経験/想像力を凝縮したお得な作品集村 上 貴 史

■百万のマルコ

『東方見聞録』で知られるマルコ・ポーロが、東方からヴェネチアに戻ってからのことだ。ヴェネチアはジェノヴァとの戦争に入る。戦争の捕虜は牢に繋がれるのだが、そんなジェノヴァの牢に新入りとして連れてこられたのが、マルコだった。キリストが生まれて一二九八年の後のことである──。
 というのが、この『百万のマルコ』という短篇集の大枠となる舞台設定だ。この大枠のもと、いずれの短篇でも、マルコが東方で大ハーン・フビライに直参として仕えていたころの経験を(一つだけは東方に旅立つ前の経験を)同じ牢で暮らす五人の捕虜に語って聞かせるスタイルとなっている。
 そのマルコの昔語りには、一つの共通する特徴があった。マルコは様々な窮地に陥るのだが、いかにしてそこから脱したかの説明を、彼は端折るのだ。故にモヤモヤが残り、故に真相を牢のなかの面々が推理することになるのである。その推理が愉しい。最終的に誤答となる推理も豊かな発想に支えられており、意外性に富むし説得力のある正解とともに、安楽椅子探偵型のミステリの愉しさを堪能させてくれるのである。それも、牢の仲間と読者が同じ情報量で推理をできるという、とことん良質なかたちで。たとえるならば、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズにおいて、会食の場にゲストが持ち込んだ謎を、会の面々が様々に推理するように、だ。
 そうした謎解きを愉しめる短篇の積み重ねで構成されている本書だが、全体としての“うねり”も備えている。いくつかの短篇に転換点が仕込まれ、それ以降の展開に影響を及ぼすように作られているのだ。それらの転換点が最終的なゴールに向けて連鎖していく構成に柳広司の作劇の巧みさを感じるし、こうした仕掛けのおかげで心地よく読了することもできる。有難い。
 ちなみに『百万のマルコ』には、二つのバージョンがある。一つ目は、二〇〇七年に東京創元社から発表されたバージョン(本稿では旧版と呼ぶ)だ。二つ目は、旧版に新たに一篇を加え、計十四篇で刊行された今回のバージョン(こちらは新版と呼ぶ)。ここからは、新版の収録順に、各篇を簡単に紹介していくとしよう。
 巻頭に置かれた「百万のマルコ」でマルコは、黄金の国ジパングでの思い出を語る。彼は、黄金に満ちた国で、とりわけ純度の高い黄金の谷に転落した。垂直の崖は登れない。谷底に流れる川は、上流は滝で行き止まり。下流は洞窟へと流れ込んでいる。だが、マルコはここから脱出したのだ。それも単に脱出しただけでなく、“他国の者にこの国の黄金を与えてはならない”“この国の黄金を他国から持ち込まれたいかなる品と交換してもならない”という黄金の国のルールに縛られたなかで、莫大な量の黄金を大ハーンの元に持ち帰ったというのだ。牢の面々はそれぞれに推理を繰り広げるが……。なんとも素敵なミステリ短篇である。謎の設定も、伏線を含めて無駄のない語り口も、シンプルながら切れ味抜群の真相も、だ。さらに、『百万のマルコ』とはこんなミステリですよ、という自己紹介としても、実に明快に作られている。第一話の役割を十二分に果たした一篇だ。
 続く「賭博に負けなし」では、大ハーンとマルコの出会い、そして大ハーンの人となりが語られる。大ハーンは、マルコが十七年にわたって仕えた主であり、彼の命に基づいてマルコが東方の各地に赴き様々な体験をした(本書で描かれるエピソードの大半がこのパターンだ)という点で、極めて重要な人物である。第二話に相応しい題材だ。ちなみにこの短篇においてマルコは、ふとしたはずみで大ハーンと賭けを行うことになってしまう。それも八つ裂きの刑に処されるリスクのある賭けだった……。真相解明を通じて、マルコの機知と、さらには大ハーンの(圧倒的な支配力と併存する)誠実さを知ることができる好短篇である。
 屈強な将軍ですら支配できなかった“遊女たちの町”キンサイを、マルコが如何に手懐けたかを語るのが「半分の半分」。大ハーン配下の同行者たちとキンサイの王との間で、板ばさみの状況に追い込まれたマルコの知恵が光る一篇である。同時に、牢の中での問題解決に、マルコの知恵と語りが結びつき始める一篇でもある。二重に美味だ。
「色は匂へど」では、地の果つる場所と呼ばれ、大ハーンとの国交が開かれていない〈常闇の国〉での謎解きが語られる。かつてこの地を訪れた異国の男は、禁を破り、処罰されたという。だが、その男が禁を破るのは、どう考えても不自然なのだ。一体なにがそうさせたのか……。シンプルで意外な真相が隠された一篇だ。そのシンプルな真相を、シンプルに読者に伝えるための工夫──牢の面々の中庭への外出許可──が施されている点も嬉しい。シンプルな真相を導くための伏線も実に見事。その伏線を短篇タイトルと重ねている点も愉快で、ミステリとしての仕掛けの周到さに凄味を覚える。
 世界最大の島、セイラン島で猿と会話することを求められたという「能弁な猿」。大ハーンの言いつけにより、二十センチを超える〈大ルビー〉を入手すべく島を訪れたマルコ。ルビーを得るには、王位継承を巡る争いを決着させねばならない。そのカギを握るのが猿だったのだ……。謎解きを味わったうえで、“知恵とは何か”をも考えさせられる短篇。奥行きのある作品だ。
 若者たちを暗殺者に仕立てるという〈山の老人〉を平定せよ。「山の老人」において、大ハーンはマルコにそう命じた。その任務の過程で〈山の老人〉に囚われてしまったマルコは、“ひとおもいに斬り殺される”か“手足の先から一寸ずつ、何日もかけて刻み殺されるか”の二者択一を迫られる状況に追い込まれた……。遊女たちの町における窮地よりもさらに救いのない選択肢だが、それでもマルコは知恵を働かせ、危機を脱した。その知恵の妙味と、いうならばその“汎用性”を愉しめる一篇である。
 七番目の短篇となる「真を告げるものは」では、まず、マルコに絵の才能がないことが示される。そのうえで、政を怠り、民を虐げ、国土を荒廃させるようになってしまった皇后の国において、世界一の絵描きとの腕比べに臨まなければならなくなった様子が語られる。技量的には敗北必至だが、マルコには知恵がある。真相を知り、彼の思慮の深さを痛感させられる作品だ。こんなところまで考えて、彼は勝負に臨んだのか、と。
 躊躇なく敵の喉をかき切る〈砂漠の民〉に、マルコが無理難題をふっかけられる「掟」。マルコが危機を脱出するために用いた手段は、他の短篇同様、意外でありシンプルだ。だが、この「掟」の真相設定は、なかなかに深い。深読みすれば、「玉砕」や「転進」にも通ずる。そんなことを想像させる捕虜のセリフで、この短篇は幕を閉じる。
「千里の道も」は、今回の新版に追加された新作。呪いで人が死ぬという謎を、大ハーンの支配を脅かしかねない占い師との対決と重ねて語った一篇である。序盤の牢の描写から謎へと続く展開は、従来パターンと全く同一というわけではなく、少々手が加えられている。いってみれば進化形だ。それに呼応するかのように、結末もまたひと味豊かだ。謎解きの手つきから感じる懐かしさ(というか、初読の方々にとっては安心できる他の短篇との共通性)を維持しつつ、しっかりと新鮮味も加えられていて嬉しい。
 十話目となる「雲の南」は、まずもって設問が魅力的だ。マルコによれば「私が答えられなかった謎は……そう、一つだけある、、、、、、」というのだ。何人もの賢い使者たちが行方不明になったという〈雲の南〉という地域で、マルコはどんな謎と出会い、どう対処したのか。刺激的なことこのうえない一篇だ。
 容貌が月のごとく美しいという大トゥルキー国の王女の夫選びが題材の第十一話「輝く月の王女」。百人以上の男たちが、結婚の条件を満たそうと──武勇に優れた王女を腕比べで負かす必要がある──勝負に挑んだものの、誰一人として勝てなかった。そんな状況で、大ハーンの孫が婿候補に名乗りをあげ、マルコがお供を命じられた。そして勝負が行われ、マルコは想定外の窮地に……。知恵の冴えに加えて、温もりを感じられる短篇である。本篇に至るまでに、十もの短篇を通じて読者が登場人物たちに親しみを覚えてきているだけに、この温もりは胸に響く。
「ナヤンの乱」では、大ハーン・フビライが敵の精鋭部隊を殲滅させたという秘密兵器の謎が扱われる。しなやかな棒状の板、半円の椀状の器、丈夫そうな糸が一束、糸巻きが数個……。若き日の大ハーンの知恵が、マルコの語りを通じて牢の面々に伝えられるという、少々毛色の変わった作品だ。この秘密兵器は、本質的には、おそらく今日でも通用するだろう。その観点では、「掟」との共通性も感じられる。
 まさに表題通りの題材が謎となった「一番遠くの景色」では、十五歳のマルコがヴェネチアで過ごした日々が語られる。父と叔父とともに東方に旅立つ前の少年時代の物語だ。彼が父と叔父に告げた“一番遠くの景色”とは……。物事を知ること、理解すること。謎解きの果てに、読者はマルコの心を知ることになる。
 最終話「騙りは牢を破る」は本書全体を締めくくる内容の一篇。マルコはここでも大ハーン絡みの難題に直面する。その詳細は割愛するが、いやはや喝采するしかない締めくくりだ。
 という具合にあらためて全体を振り返ってみると、バリエーションに富んだ謎を、同じくバリエーションに富んだ舞台で読ませてくれる本書は、読者になんと豊かな旅をさせてくれることかと驚嘆する。謎解きにしても、深く人の心を照射するものもあれば現代社会をも刺すものもある一方で、頭の体操の類いもあれば、しれっと空とぼけるタイプさえある。また、謎解きの舞台にしても、黄金の国もあれば世界最大の島もあり、砂漠も〈常闇の国〉もある。ジェノヴァの牢も舞台だし、ヴェネチアの運河や港もそうだ。しかもそんな色とりどりの各篇を、間延びも駆け足もない実に適正なページ数で読ませてくれる。旅の行程として完璧なのである。
 各篇の構成としては、謎に一直線に突き進むのではなく、まず牢の模様をルスティケロが語り、その後、マルコに語り手を引き継ぎ、彼が大ハーンに仕えていたことを前置きとして述べたうえで、謎を読者に(そして牢の仲間に)提示する造りとなっている。この枠組みが共通のものとして「一番遠くの景色」を除いて毎回繰り返されるのだが、その“額縁”が果たす役割は、実は一定ではない。ここにもまた変化が織り込まれているのだ。さらにいえば、この“額縁”があるからこそ魅力が増す短篇すらある。柳広司は、デビュー作の『黄金の灰』(二〇〇一年)や『饗宴』(同年)といった初期作品でも“額縁”を駆使していただけに、本書での使い方に冴えがあるのも納得である。
 また、個々の作品の紹介でも触れたように、十三世紀のジェノヴァの牢において東方を舞台にした謎解きを語るという、二重に現代日本からは縁遠い小説ではあるが、ときおり、そこから刃が二十一世紀に生きる読み手の喉元に伸びてくる。柳広司の刃が──歴史に親しみ、それを題材とする小説を書き続けるなかで鋭く研いできた刃が──この小説のなかにもひそんでいる。娯楽小説として謎解きを堪能するという読み方ができるうえに、さらに一歩踏み込むと、この世の危うさに気付かされるという、なんとも油断のならない短篇集なのである。

■柳広司

 さて、冒頭に記したとおり、二〇〇七年に文庫オリジナル連作集として刊行された本書旧版だが、雑誌に作品を発表し始めたのは二〇〇二年のことである。柳広司が“デビューの年にハードカバー作品を三冊刊行、その二冊目は新人賞受賞作”という破格の文壇登場を果たした翌年だ(新人賞とは、第十二回朝日新人文学賞のことで、『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で受賞した)。詳しくは初出一覧をご参照戴きたいが、年に二〜四本のペースで〈小説すばる〉に掲載し、その後〈ミステリーズ!〉Vol. 20(二〇〇六年一二月号)に「半分の半分」を発表、さらに書き下ろしの短篇を加えて、二〇〇七年三月の旧版刊行に至ったのである。
 その旧版刊行前後の状況も紹介しておこう。柳広司にとって、なかなか重要なタイミングで『百万のマルコ』は刊行されたのだ。
 旧版の刊行に先立ち、二〇〇六年の後半から〇七年にかけて柳広司の小説の文庫化が続いていた。『はじまりの島』が二〇〇六年九月、『新世界』十月、『黄金の灰』十一月、『饗宴 ソクラテス最後の事件』〇七年一月、そして本書旧版が三月という流れだ。七ヶ月で五冊。ちょっとした柳広司ブームが来ていたのである。そしてこの勢いが、本格的に読者に浸透するのは翌年のことだ。〇八年刊行の『ジョーカー・ゲーム』が各種のミステリ・ランキングで上位に入り、吉川英治文学新人賞と日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門を受賞したのだ。この『ジョーカー・ゲーム』に収録された五篇のなかで最初に発表されたのは、〈野性時代〉二〇〇七年十一月号掲載の表題作だった(他は〈野性時代〉〇八年五月号発表の「ロビンソン」と書き下ろしの三篇)。つまり、『百万のマルコ』の連載も書籍化もすっかり完了してから、『ジョーカー・ゲーム』が動き出したことになる。現時点で著者最大のヒットシリーズの前夜に、本書は刊行されたのだ(直前、ではない。本書と『ジョーカー・ゲーム』の間には、〇七年四月刊の『漱石先生の事件簿 猫の巻』がある)。
 そうした時系列を意識して本書を眺めると、ちらほらと『ジョーカー・ゲーム』に繋がる芽が感じられて興味深い。例えば、「雲の南」で示される悪魔的なロジックがそうだし、「山の老人」や「ナヤンの乱」における人の心の操り方もそう。第二次世界大戦前夜の日本におけるスパイ養成を題材とした冷徹な『ジョーカー・ゲーム』とはだいぶ異なる作風の本書だが、それでもやはり共通のテイストは備えているのである。
 本書との共通性という観点で見逃せないのが、『最初の哲学者』だ。二〇一〇年に刊行され、一四年に『ソクラテスの妻』と改題して文庫化された掌篇集だが、雑誌掲載まで遡ると、〈月刊ジェイ・ノベル〉の二〇〇三年四月号から二〇〇五年二月号までの十二回にわたって隔号連載された原稿を主体とした作品であり、『百万のマルコ』と執筆時期が重なっていることに気付く。『最初の哲学者』の題材は古代ギリシャであり、ジェノヴァもしくは東方とは異なるが、執筆時期だけでなく、内容面においても、哲学者タレスがピラミッドの高さを求めよという難題に挑むというような類似点もあれば、アリアドネの論理の意外性といった共通項もある。もちろん相違点もふんだんにあり、あわせ読むことで、双方をさらに深く味わうことができよう。
 さらに『最初の哲学者』の単行本化の際に追加された書き下ろし「ヒストリエ」にも着目したい。こちらは歴史家ヘロドトスの視点や功績を描いた一篇である。単行本刊行時期からして二〇一〇年頃に書かれたと推測するが、この時点の日本では、まだ、公文書改竄や統計の不正などがニュースを賑わすような状況にはなっていなかった。そんな時期に書かれた「ヒストリエ」なのだが、二〇二二年の視点で読むと、その内容と短篇タイトルの重みがより一層伝わってくる一篇である。そして『百万のマルコ』にもこのテーマと相通ずる一篇がある。旧版刊行から十五年が経過したが、陳腐化するのではなく、むしろ現代に響く小説として、より輝きを増しているのだ。
 柳広司は、『百万のマルコ』『最初の哲学者』あるいは『ジョーカー・ゲーム』シリーズなどを発表した後にも、『風神雷神 風の章』『風神雷神 雷の章』(一七年、後に文庫化に際して上下巻の『風神雷神』に改題)、『太平洋食堂』(二〇年)など、時間的にも空間的にも文化的にも広い視野で、そしてエコーチェンバー現象とも対極的な視点で、歴史や文化を豊かな物語として表現し続けている。二一年には、治安維持法を題材とした『アンブレイカブル』を発表した。『ジョーカー・ゲーム』シリーズの四作や、『新世界』(〇三年)、『トーキョー・プリズン』(〇六年)などで第二次世界大戦前後の日本及び世界をミステリ仕立てで描いてきた柳広司ならではの深みを備えた一冊であり、こちらも是非お読み戴きたい。そのうえで、治安維持法を(弾力的あるいは恣意的に)運用した人々を、『百万のマルコ』新版に追加された新作「千里の道も」と対比してみて欲しいと思う。愚かさ、滑稽さ、そして恐ろしさを、より痛感できるはずだ。

 柳広司は、旅人である。
 幼いころから旅行記が好きで読みあさっていた彼は、二十代で会社を辞めて欧州の各国を渡り歩き、ギリシャでは一年近くを過ごした。小説を書く愉しみに目覚めたのは、日本から欧州へと向かう船のなかでのことであった。そんな彼が描く小説は、歴史を遡って旅をする。異国へと旅をする。小説のなかへも旅をする。それが柳広司にとっての自然体であり、つまりは多面的な思考をこの小説家が血肉として備えていることを意味する。だからこそ、『百万のマルコ』のような多彩な世界を描けるし、そんな視点を通して初めて案出できる謎解きを描けるのだ。『百万のマルコ』は、柳広司の知恵と経験、そして想像力がぎゅっと凝縮されているという点で、実にお得な作品集なのである。
 お得をもう少々。冒頭で記したように、『百万のマルコ』の旧版と新版には差異がある。「千里の道も」が追加されただけでなく、六番目に置かれていた「半分の半分」が三番目に繰り上がり、「色は匂へど」から「山の老人」までが一つずつ繰り下がった。さらに「真を告げるものは」と「掟」の順番が入れ換えられている。そして八番目に繰り下がった「掟」のあとに、「千里の道も」が挿入され、続く「輝く月の王女」と「雲の南」も入れ換えられているのだ。つまり新版は、旧版を素材として活かしつつ、新作を加え、現在の視点で再構築した一冊なのだ。前述のように『百万のマルコ』は現代日本に響く作品であるが故に、こうした著者の取り組みは非常に意義深い。また、「半分の半分」を繰り上げることで、本書全体の流れを司るエピソードが先頭の三篇で出揃うなど、読みやすさも増した。とはいえ、柳広司本人は個々の変更の理由について今のところ何も説明を行っていない。となれば、だ。牢の中の面々のように、語り手の意図を推理してみたくなる。新版で加えられたもう一つの愉しみであり、もう一つの“お得”だ。

(むらかみ・たかし ミステリ書評家)