書評
二〇一七年のことだった。
それまで、池井戸潤のファンにとって“幻の長篇”であった小説が、突然目の前に姿を現した。
『アキラとあきら』である。
この小説は二〇〇六年から二〇〇九年にかけて『問題小説』に連載されていたが、その後、そのまま長らく書籍化されずにいた。いったいどんな物語なのか、中身をまるで想像させないタイトルのみが伝えられており、実際に雑誌で読んだ方はともかくとして、そうでない池井戸ファンの方々は、いつ読めるのか、はたして読める日が来るのかとずっと気にしていたことだろう。
どれほど待望されていたかは、一七年の五月に刊行された『アキラとあきら』が、六月には既に五〇万部を突破したことで明々白々である。とにかく皆が待望していたのだ。
という具合に、『アキラとあきら』が書籍として世に現れたことだけでも、まずは嬉しいのだが、さらに物語の構造が、従来の池井戸潤にはなかったスタイルである点が新鮮で、なお嬉しくなる。そしてそれ以上でもある。小説としてとにかく素晴らしい出来映えなのだ。それこそ、池井戸潤という作家名を伏せて発表したとしても万人に支持されるであろうというほどに、魅力的なのである。
つまりファンにとってはトリプルボーナスのような一冊だったのだ。
瑛と彬。
同じアキラという音の名前を持つ二人は、ともに社長の息子として育った。
だが、その境遇には大きな違いがあった。
山崎瑛は、伊豆は河津の零細工場の経営者の息子であり、階堂彬は、日本の海運業の一翼を担う東海郵船社長の息子であった。
瑛が小学生のころに父の工場は倒産し、母方の祖父の家に夜逃げ同然に転がり込むことになる。
彬は東海郵船を大きく育てた祖父や、その後継者として会社を力強く率いる父の下で恵まれた日々を送りつつ、その己の運命に子供ながら嫌悪感を抱いて育った。
小学校のころに一度だけかすかに接した二人のアキラ、彼等の人生の三〇年を、小学生時代を起点に描いた長篇小説が、池井戸潤の新作『アキラとあきら』である。
まずは三〇年という年月を丹念に語るスタイルが、池井戸潤としては新鮮だ。『BT’63』(二〇〇三年)で、主人公に過去と現在を行き来させながら長い時間の物語を描いたことはあったが、今回は順を追って瑛と彬の歩みを一歩ずつ語っており、読み味はまったく別物だ。そしてその連続した三〇年という時間を丹念に語るには、やはり原稿用紙にして約一〇〇〇枚のボリュームを必要としたのだろう。確かに枚数はあるが、いやはや、エピソードの一つ一つが印象深く、圧巻の読み応えである。ちなみに、二人は六三年前後の生まれ(池井戸潤も六三年生まれだ)。その彼等が小学校高学年(十一歳頃)になってからの物語なので、一九七〇年代前半から二〇〇〇年代前半にかけての時間が、この小説の中では流れていることになる。つまり、オイルショックからバブル期、失われた一〇年、さらには二一世紀という時代が、瑛と彬の三〇年の背景となっているのである。
ちなみに刊行当時の『読楽』のインタビューによれば、“デビュー時から書いてきた銀行小説の集大成にしようと、主人公たちが銀行員になる以前から書き始めた”とのこと。小学生のアキラとあきらが登場する裏側には、こうした
瑛と彬という二人を対等に描く点もまた、池井戸作品では新鮮だ。コンビで活躍する例は、指宿修平とその部下の唐木怜(〇二年の『銀行総務特命』)や花咲舞と上司の相馬健(〇四年の『不祥事』)などで例があったが、独立した二人が同じ比重で描かれている例は珍しい(強いていえば総理大臣とその息子を奇想天外に描いた一〇年の『民王』か)。
二人の主人公という図式は、単にスタイルとして新鮮なだけではない。半沢直樹や花咲舞など、抜群の存在感を備えた主人公で物語を
なかでも瑛と彬の人生が交差する場面のインパクトは特筆に値する。それぞれの立場や視点で問題を捉え、その解決に必死になるだけに、読者としては、彼等が立ち向かう問題を立体的に把握することになる。従って奮闘や解決案も立体的に浮かび上がり、物語が躍動するのだ。読者はもう、本書を手放せなくなるのである。
それを象徴するのが、二人の就職直後のエピソードだ。瑛と彬は、ある共通する問題に全く異なる立場から挑むのだが、先制攻撃が抜群なら逆襲も抜群。問題の仕掛け人すら舌を巻く攻防であった。そしてこの攻防を通じて読者は瑛と彬の才能を再認識し、さらに物語の後半を支える基本的な人間関係を実感することになるのである。
そうした才能の持ち主である瑛と彬は、就職後、バブルの絶頂期やその後を経験してさらに成長していく。そんな彼等─才能があり、さらに
そうした危機との闘いに代表されるように、これまでの池井戸作品の読者が抱く期待も、本書はもちろん満たしてくれる。半沢直樹が所属する産業中央銀行が登場するという類いの期待だけでなく、私利私欲や保身に固まった面々と、理想と正論と機知で闘う主人公という構図も熱いし、主人公の決断の勇気も堪能することが出来る。むしろ作品全体のスケールが大きいだけに、いつも以上に強くそれらを味わえるとさえいえる。従来と同じ観点でも、一レベル上の満足を得られるのだ。
一〇〇〇枚を引っ張る彼等二人の描き方もまた、巧みだ。
なお、前述のインタビューでは、一五〇〇枚ほどあった雑誌掲載原稿につき、後半部分をほぼ新たに書き直し、さらに
『アキラとあきら』─二人の主人公という設定が、三〇年の物語という枠組みと鮮やかに融合した一作である。二人の長い年月を語ることで家族や経済活動といった様々な関係での人と人の
さて、この『アキラとあきら』は、池井戸潤にとって一〇ヶ月ぶりの新作であった。老舗の足袋製造会社の新たな挑戦を描いた『陸王』(一六年七月刊行)以来の新作だ。
だが実態は冒頭に記したように、『陸王』よりも『民王』よりも、さらにいえば『鉄の骨』(〇九年)で吉川英治文学新人賞を一〇年に受賞するよりも、そしてあの直木賞受賞作『下町ロケット』(一〇年)よりも、前に書かれた作品なのである。
池井戸潤が本書を雑誌に連載していた〇六年から〇九年という時期は、『鉄の骨』『下町ロケット』で賞を受賞する前であり、また、『オレたちバブル入行組』(〇四年)『オレたち花のバブル組』(〇八年)がTVドラマ『半沢直樹』によって大ベストセラーになる前でもある。
一方で、池井戸潤が小説の書き方を人物重視に変えるきっかけとなった『シャイロックの子供たち』(〇六年)よりは、後の時期である。
つまり『アキラとあきら』は、新たな書き方に目覚めた池井戸潤が雑誌に執筆し、それを人気作家になった池井戸潤が一冊の本として磨き上げた作品なのである。充実した小説に仕上がったのは必然といえよう。
ちなみに池井戸潤の新作がいきなり文庫で刊行されるのは、『アキラとあきら』で三度目のこと。過去に、短篇集『かばん屋の相続』(一一年)と長篇サスペンス『ようこそ、わが家へ』(一三年)が文庫オリジナルで刊行された例があるだけだった。
文庫オリジナルの前例『ようこそ、わが家へ』もTVドラマ化されて人気を博したが、この『アキラとあきら』もドラマ化された。一七年の七月から九月にかけて、向井
ドラマ化との関連で言えば、『ノーサイド・ゲーム』(一九年)についても触れておきたい。ラグビーの社会人チームを題材にした小説で、六月に刊行され、七月から九月まで連続ドラマとして放送された。そして、この『ノーサイド・ゲーム』という小説及びドラマが、ある種の地ならしをしたようなタイミングでやってきたのが、そう、ラグビーワールドカップ二〇一九である。驚異的な人気を獲得したこの大会の成功とともに、二〇一九年の思い出として、『ノーサイド・ゲーム』は忘れがたい一冊となった。
そして
さて、本稿執筆時点で池井戸潤の小説としては、『ノーサイド・ゲーム』が最新作となる。二〇二〇年には、まだ一つも著作が発表されていない。だが、そう。そうである。ご存じの通り、九月には《半沢直樹》シリーズの第五弾、『半沢直樹 アルルカンと道化師』が刊行されるのだ。シリーズ第一作の
「映画化決定」というこれまた刺激的な帯をまとった集英社文庫版の『アキラとあきら』を読みつつ、TVドラマ『半沢直樹』を観つつ、新作を待つ。二〇二〇年の夏は、そんなふうに過ごしてみてはいかがだろうか。
(むらかみ・たかし 書評家)
2020年7月に執筆